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2018年9月28日号 vol.341

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/日本初の西洋式銅像 大村益次郎銅像

写真:「長井雅楽肖像画」(萩博物館蔵)。橋爪堆恩(はしづめ たいおん)作。昭和37(1962)年の没後百年祭を機に制作されたもの

藩主世子を育てた「航海遠略策」の長井雅楽

幕末、藩主父子に信頼されながら、無念の最期を遂げることになった長井雅楽を紹介します。

萩博物館 明治150年記念特別展「長州ファイブ‐幕末・海外留学生の軌跡‐」
この特別展において、長井家に伝わる「長井雅楽辞世」など、雅楽の貴重な資料が展示されます。
期間:10月27日(土曜日)から11月25日(日曜日)まで
場所:萩博物館

萩藩の幕末は、藩論が揺れ動いた激動期。藩の命令で無念の最期を遂げた人も少なくありませんでした。その一人に、藩主父子に厚く信頼された人物であり、「航海遠略策」で知られる長井雅楽(ながい うた)がいます。

雅楽は文政2(1819)年生まれ。長井家は、萩藩主毛利(もうり)家と祖先を同じくする家でした(※1)。雅楽は「容貌といい、品行の正しい人で、弁舌もよし、尊敬の意を起こす人」(※2)だったといい、敬親の養子に決まった徳山藩主の十男、後の元徳(もとのり)(※3)の養育を任されました。

元徳が養子として萩に来たのは嘉永5(1852)年14歳のとき。幼さが残る若殿を、雅楽は厳しく育てました。元徳が前から欲しがっていた、おもちゃのような弓を献上されて大喜びしたときには、雅楽はそれを膝で折り、「36万石の世子がこんなものをお貰(もら)いになってお喜びのようではいけません。お好みならば何十挺(ちょう)でもこしらえます」と意見したといいます。元徳が退屈の余り、障子を破ったときには、雅楽は「ネズミの仕業」と気付かぬふりをし、係の者に張り替えを命令。元徳はそれが癇(かん)に障ったのか、翌日、障子を打ち壊します。すると雅楽は「その御気性は頼もしゅうございます」とほめ、以来、障子が破られることはなかったとか。また、江戸の藩邸で大地震に見舞われたときには、雅楽が元徳を抱きかかえ、足で障子を蹴破るなどして脱出(※4)。雅楽の愛情は元徳に届いていたことでしょう。

無念の切腹を遂げた雅楽を忘れなかった人々

当時は、幕府がアメリカから開国・通商を要求され、安政5(1858)年には朝廷の許しを得られないまま通商条約を結び、幕府と朝廷との関係が悪化していたころでした。文久元(1861)年、萩藩主毛利敬親(たかちか)は朝廷・幕府の周旋(※5)を決意し、雅楽は航海遠略策を藩主に提出。それは、我が国は公武一和(※6)となって鎖国を改め、海軍を興し、自ら外国と交易して相手を知り、外国の脅しを押さえるべきといった独自の開国論でした。航海遠略策は重臣らの討議で修正され、藩主が藩是(藩の方針)として承認。雅楽が上京して朝廷・幕府を周旋することになりました。

当初、周旋は順調でした。しかし尊王攘夷派の反対運動が激化し、朝廷の雲行きが一変(※7)。雅楽は藩政府から職を解かれ、切腹の刑とされます(※8)。藩主父子は信頼する雅楽の切腹をなかなか認めず、特に元徳は日常の食事も進まなくなるほど衝撃を受けますが、藩の状況から止めることはできず、雅楽は「君かため捨る命は惜からて 只(ただ)思はるゝ国の行すえ(※9)」との句を残し、文久3年(1863)2月、切腹。萩藩の志士らによる関門海峡での攘夷(じょうい)実行3カ月前のことでした。

「近来傑出之人物(※10)」とも評されていた雅楽。時勢の変化などにより無念の切腹を遂げた雅楽に、維新後、同情し、名誉回復へと動いた人々がいました。その一人が、かつて雅楽を激しく攻撃した尊王攘夷派であり、初代外務大臣となった井上馨(いのうえ かおる)。また、没後百年目の昭和37(1862)年には萩で顕彰会も設立されました。独自の策を提唱し、新しい世のため奔走した雅楽。時を経ても歴史の中で生き続けています。


「毛利元徳肖像画」(山口県立山口博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「毛利元徳肖像画」(山口県立山口博物館蔵)。イタリアの銅版画家キヨッソーネが明治時代に制作したもの
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海潮寺/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

萩市にある「海潮寺」。境内に雅楽の墓がある。なお、本堂は藩校「明倫館」にあった聖廟を移築したもの
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「長井雅楽ニ関スル談話」毛利家文庫(山口県文書館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「長井雅楽ニ関スル談話」毛利家文庫(山口県文書館蔵)。雅楽の遺族などへの聞き取りを明治時代にまとめたもの。雅楽は、茶道をたしなむ藩主敬親をいさめたことがあった。ところが元徳を徳山に迎えに行った際、茶道を知らなかったために恥をかいたことから、雅楽が敬親に詫(わ)び、茶道を習い始めたという証言もある
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  • ※1 長井家の祖は、鎌倉幕府重臣・大江広元(おおえのひろもと)の次男。藩主毛利家の祖は、広元の四男。本文※1へ戻る
  • ※2 維新後、雅楽の復権が図られる中で行われた、遺族などへの聞き取り『長井雅楽ニ関スル談話』毛利家文庫(山口県文書館蔵)に記された、親族・福原又市(ふくばら またいち)の言葉。。本文※2へ戻る
  • ※3 実父は、萩藩の支藩である徳山藩(現在の周南市)の第8代藩主・毛利広鎮(もうり ひろしげ)。本文※3へ戻る
  • ※4 これらは『長井雅楽ニ関スル談話』に記された遺族などの証言による。本文※4へ戻る
  • ※5 間をとりもつこと。本文※5へ戻る
  • ※6 朝廷と幕府が折り合うこと。本文※6へ戻る
  • ※7 幕府は朝廷に対し、通商条約を破棄して攘夷を実行する「破約攘夷」の覚悟を伝えると共に、公武関係融和のため、皇女和宮(かずのみや)と将軍家茂(いえもち)との婚姻を求め、朝廷もこれを許した。しかし幕府は破約攘夷を実行しようとしなかったことから、こうした幕府の姿勢を批判する尊王攘夷派の勢力が台頭した。本文※7へ戻る
  • ※8 切腹の原因は諸説ある。雅楽が当初公卿(くぎょう)へ航海遠略策について述べた際、求められてやむなく提出した大意の書面に、朝廷を誹謗(ひぼう)するような言葉があったとされたため。また、雅楽が当初提出した大意の書面は、藩の決裁の内容とは異なっていたためなど。本文※8へ戻る
  • ※9 「主君敬親のために捨てる命は惜しくない。ただ気がかりなのが、この国の行末だ」といった意味。本文※9へ戻る
  • ※10 現在の周防大島に生まれ、藩主敬親に仕えた蘭学者・青木周弼(あおき しゅうすけ)による。本文※9へ戻る
【参考文献】
相島宏美『二つの航海遠略説』『山口県地方史研究』117 2017
上符達紀「長井雅楽の『贈位』について」『山口県地方史研究』118 2017
道迫真吾「資料紹介『長井雅楽ニ関スル談話』」『萩市郷土博物館研究報告』11 2001
時山弥八『増補訂正もりのしげり』1932(2015復刻)
長井雅楽顕彰会『長井雅楽』1962
中原邦平『長井雅楽詳伝』1979(2015再版)
中原邦平「長井雅楽の事蹟」『防長史談会雑誌』34 1912など
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