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2018年8月24日号 vol.340
2018年は明治改元から150年

写真:「靖国神社大村大輔之肖像」(萩博物館蔵)。大村益次郎銅像が竣工(しゅんこう)した明治26(1893)年に東京で出版された錦絵
“日本初の西洋式銅像” 大村益次郎銅像
日本初の西洋式銅像は大村益次郎銅像。益次郎は長州に生まれ、維新政府で軍隊の近代化に尽力した人物です。どういう経緯で日本初の西洋式銅像が誕生したのかをご紹介します。
東京九段の靖国神社(※1)に、台座を含めて高さ12メートルを超える巨大な「大村益次郎(おおむら ますじろう)銅像」があります。それは日本初の西洋式銅像で、日本の近代化への試行錯誤を物語るモニュメントともいえるものです。
益次郎は文政8(1825)年、鋳銭司(すぜんじ)村(現在の山口市)で医業を営む家に生まれました。蘭学を学んだ益次郎は幕末、萩藩の軍制改革を担い、維新政府では明治2(1869)年、兵部大輔(ひょうぶたいふ)(※2)として軍隊の近代化に尽力。しかし、反対派に襲撃され、その傷がもとで同年11月に亡くなりました。その死は多くの人に惜しまれ、3年後、鋳銭司に大村神社が完成。そして明治15(1882)年、東京での没後13年の祭典の際、銅像建立の話が生まれます。銅像造立委員の一人は、益次郎に洋式兵学を学び、後に日本初の司法大臣となる山田顕義(やまだ あきよし)(※3)。当時は西洋諸国を視察した人々から、何かを記念するものとして碑に代わって日本にも銅像を、という声が出始めたころでした。
明治18(1885)年、銅像の設計者が、日本初の官立美術学校(※4)を3年前に首席で卒業した大熊氏廣(おおくま うじひろ)(※5)に決まります。翌年、銅像の建設場所が靖国神社に決定。その理由は、靖国神社創建の地の選定に、益次郎自身が深く関わり、縁のある地であったことが大きいと考えられます。
生前の写真がなく、相次ぐ苦難を経て、足掛け12年を経て完成
ところが日本初の西洋式銅像誕生への道のりは多難なものとなりました。その大きな理由の一つが、生前の益次郎の写真がなかったことでした。そこでまず、益次郎と面識があった人物が絵を描き、その絵を元にイタリア人の銅版画家キヨソーネ(※6)が肖像画を制作。それを参考に、氏廣が顔の部分を粘土で作って委員たちに見せたところ、その評価は大きく分かれるものとなりました。
また、銅像の鋳造は日本初のこと。しかも大規模なものであり、氏廣は当時の日本で最先端の工学である鋳造技術などを学ぶため欧州へ留学します。帰国後は、益次郎の容貌を知るため山田顕義に相談し、山口県へ。骨格が似ているという益次郎の妹に会い、亡き益次郎の妻に話を聞き、体格が似ているという益次郎のおいに面会。それを機に形が決まり、明治24(1891)年、原型の石こう像が完成します。鋳造も氏廣が担いましたが、工場は二転三転。原料不足や、技術的にも「巨大なる上に従来の如き阿弥陀仏とは異なり」(※7)と報じられたほど難航し、除幕式は度々延期。そしてようやく明治26(1893)年2月5日に挙行されました。
完成した銅像は、わらじを履き、短袴(たんこ)(※8)と筒袖羽織(つつそでばおり)(※9)を着用し、大小の刀を差し、左手に双眼鏡を持ち、左足を一歩踏み出しはるか遠くを見据えるという姿。銅像も台座も関係者の思いが込められた形であり、完成後は多くの人々が押し寄せたほど話題となります。しかし、あまりにも高すぎ、顔がよく見えないといった声も出ることになりました。
発起から足掛け12年。日本初の西洋式銅像は、日本の近代化へ向けて試行錯誤した先人たちの苦労や思いも物語ってくれます。

「大村益次郎肖像画写真」(山口市歴史民俗資料館蔵)。大村家旧蔵写真で、原画はキヨソーネ作と伝わる。昭和19(1944)年発行の大村益次郎傳記刊行会『大村益次郎』にも掲載されている
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「大村益次郎銅像写真」(山口市歴史民俗資料館蔵)。銅像建立の明治26(1893)年から明治32(1899)年ごろまでの写真。台座の周囲に大砲が並べられている。現在、大砲は設置されていない
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山口市鋳銭司にある「鋳銭司郷土館」。益次郎の遺品などを展示。近くには、益次郎を祀(まつ)る大村神社をはじめ、益次郎夫妻の墓、大村公神道碑、旧大村神社跡などがある
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- ※1 明治2(1869)年6月、明治維新前後に国事に倒れた人々を祀(まつ)る目的で「東京招魂社」として創建。
- ※2 明治2(1869)年に設けられた兵部省の官職で、トップの兵部卿に次ぐもの。兵部省の実務は実質的に益次郎が担っていた。
- ※3 松下村塾出身。明治時代、岩倉使節団に参加後、近代法の整備などを担い、法曹界の人材育成のため、現在の日本大学などの創設にも携わった。山口市亀山公園山頂広場「毛利家銅像」建設事業の初代総裁も務めた。
- ※4 萩藩出身の山尾庸三(やまお ようぞう)の尽力で開校した「工部美術学校」。日本の工業の発展には西洋美術の教育も必要として設置された。
- ※5 武蔵国(むさしのくに。現在の埼玉県)出身。工部美術学校ではラグーザに彫刻を学んだ。「毛利家銅像」の設計も担ったが、制作時期が益次郎銅像と重なり、途中で自ら辞退。
- ※6 明治8(1875)年、大蔵省紙幣省の招きで来日。紙幣や切手などの製作や指導を行い、日本の印刷技術の発展に寄与。明治天皇や、幕末の萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)と元徳(もとのり)父子らの肖像も描いた。
- ※7 明治24年(1891)12月20付『読売新聞』による。
- ※8 丈の短いはかま。
- ※9 たもとがない筒型の袖の羽織。
- 【参考文献】
- 網野ゆかり「失われた六基の毛利家銅像が物語るもの」『山口県地方史研究』119 2018
- 内田伸『大村益次郎写真集』1993
- 大熊氏治「祖父大熊氏廣の思い出」『明治美術研究学会第14回研究報告』1986
- 坂井久能「大村益次郎銅像と賀茂水穂」『國學院大學研究開発推進センター研究紀要』12 2018
- 田中修二「大熊氏廣」『近代日本最初の彫刻家』1994
- 萩博物館『生誕170年記念特別展 山田顕義と近代日本』2014
- 萩博物館『没後100年記念企画展 日本の工学の父 山尾庸三』2014
- 平瀬礼太『銅像受難の近代』2011
- ミュージアム・タウン・ヤマグチ実行委員会『激動の幕末長州藩主 毛利敬親』展示図録 2018
- 村田峯次郎『大村益次郎先生伝』1892
- 山本栄一郎『幕末維新の仕事師「村田蔵六」大村益次郎』2016 など
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