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2018年7月27日号 vol.339
2018年は明治改元から150年

写真:重要文化財 太刀「銘□友(伝助友)附(つけたり) 衛府太刀拵(えふたちこしらえ)」野田神社蔵(山口県立山口博物館寄託)。敬親を祭神とする野田神社の創建に当たり、毛利家から奉納。「激動の幕末長州藩主 毛利敬親」展で展示中
第3回 敬親は「そうせい公」だったのか
幕末の萩藩主・毛利敬親。小説の影響から「そうせい公」のイメージを持つ人が少なくありません。それとは異なる毛利敬親像を明治時代の記録などを通じて紹介します。
- 山口県立美術館 明治150年記念特別展「激動の幕末長州藩主 毛利敬親」
- 毛利敬親の生涯や志士たちの活動などを、重要文化財を含む200点以上の歴史資料と美術工芸品で紹介します。7月28日(土曜日)からは、かつて毛利家が秘蔵し、現在は宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する狩野永徳(かのう えいとく)・狩野常信(つねのぶ)筆「唐獅子図屏風(びょうぶ)(右隻(うせき)・左隻(させき))」のうち、常信による左隻(江戸時代前期)が展示されます。
期間:8月26日(日曜日)まで
場所:山口県立美術館 - 毛利博物館 明治維新150年記念企画第2弾 企画展「毛利敬親と戊辰戦争」
- 萩藩が倒幕を実現する過程を毛利博物館が所蔵する貴重な史料を通じて紹介します。
- 期間:9月2日(日曜日)まで
- 場所:毛利博物館
長州の本藩である萩藩(※1)。その幕末の藩主・毛利敬親(もうり たかちか)は、小説の影響から、家臣の意見に「そうせい(そのようにせよ)」と答えるばかりの「そうせい公」だったというイメージを持つ人が少なくありません。明治時代の記録などからは、どんな姿が見えてくるのでしょうか。
元治元(1864)年の「禁門の変」後、萩藩は朝敵とされて幕府から出兵され、窮地に陥りました。9月25日、その対応を巡って緊急の会議が行われると、朝廷・幕府へひたすら謝罪すべきという声、武備恭順(※2)すべきという声、それまでの藩政府を批判する声など、会議は紛糾。朝から夕方まで延々と続き、それを終わらせたのが敬親の次のような言葉だった、といいます。「過去の事を繰り返して、論争しても無益である」「予(よ)(※3)は今日直(ただ)ちに武備恭順の方針を採るから、皆々左様心得よ」(※4)。
しかし、会議で武備恭順を強く主張した井上馨(いのうえ かおる)の暗殺未遂事件などが発生(※5)。その後は、朝廷・幕府へひたすら謝罪すべきという保守派が勢いを増し、政権を握ります。それに対し、高杉晋作(たかすぎ しんさく)らの改革派が決起。慶応元(1865)年、内戦へ突入します。約1カ月後、敬親は中立派の建白に耳を傾け、改革派の支持を決断します。2月22日から3日間にわたって萩城内の祖霊社で臨時の祭祀(さいし)を実施。藩の混乱を「敬親 不肖ノ所為(しょい)(※6)ニシテ、他人ニ責ムベキニアラズ」(※7)と、自らの罪としてわび、家臣たちにも自ら諭告(※8)し、これにより藩の混乱は終結へと向かっていきました。
日本を一つに。「版籍奉還」へ敬親の決断
敬親に仕えた小姓(※9)が後に興味深い証言を残しています。「君側(くんそく)(※10)などの者には御政事(せいじ)(※11)のことは決して御話はございませぬ(ん)でした」。敬親は、中国の話として、王侯に仕えて権力を握った側近の弊害を話し、そうしたことが起きないよう常に気を付けていたというのです(※12)。また、人柄を伝える証言も残しています。敬親が山口の市中を歩いた際、農民と出会い、家臣が農民に農作業をやめ、頬かぶりを取るように言うと、「彼らは働いておるのに、そのようなことをすると私が歩いたことが害になる。制止してはならん」と家臣の方を注意された、と(※13)。
徳川幕府が倒れた後の明治2(1869)年、萩藩(長州)・鹿児島藩(薩摩)・高知藩(土佐)・佐賀藩(肥前)が、新政府に版籍奉還(※14)の建白書を提出します。版籍奉還を提起・推進したのは木戸孝允(きど たかよし)(※15)ら。孝允は以前から、列強に対抗できる国づくりを急ぐべきとし、諸大名の土地や人民を朝廷へ納めなければ日本の統一はできないと考えていました。版籍奉還の前年、敬親にその考えを述べたところ、敬親が同意。孝允が感涙して退こうとすると呼び止められ、「今は戦乱(※16)の余波で人々の気持ちが荒立っているので、にわかに大改革をするとどういうことが起こるかもしれず、時機を見計らうように」と伝えられた、といいます(※17)。
明治4(1871)年、敬親は53歳で亡くなります。亡き敬親はその遺徳を慕う旧家臣らによって神としてまつられ(野田神社)、顕彰活動も行われていきました。証言などを通して振り返ると、多様な意見に注意深く耳を傾け、責任を持って決断し、旧来の枠組みをも変えることを恐れなかった、そうせい公とは異なる姿が見えてきます。

「水差」(毛利博物館蔵)。明治3(1870)年に敬親が朝廷より拝領したもの。翌年1月、明治天皇を補佐するよう天皇自筆の勅書がもたらされたが、敬親は病が悪化。3月に死去した。「激動の幕末長州藩主 毛利敬親」展で展示中
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香山公園(山口市)。石畳を直進すると、明治天皇より明治維新における敬親の功労を讃(たた)えて下賜された「毛利敬親勅撰銅碑」。石畳を左に曲がると敬親夫妻らが眠る香山墓所へ至る
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重要文化財「山口県行政文書」に包括される文書のうち「官国幣社(大正6年)」という簿冊に挟み込まれている「野田神社境内図」(山口県文書館蔵)。敬親を祭神とする山口の野田神社は大正4(1915)年、別格官幣社に列せられた。これはそのとき国への申請に際して添えられた図の副本。「激動の幕末長州藩主 毛利敬親」展で展示中
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- ※1 『山口きらめーる』おもしろ山口学では、本藩を萩藩と表記し、本藩と支藩などを合わせた全体を長州(現在の山口県)と表記しています。
- ※2 対外的には幕府に恭順するが、内では武備を充実させていくこと。
- ※3 私。自分。
- ※4 毛利家編輯所の所員だった中原邦平(なかはら くにへい)の『忠正公勤王事績』によるもので、同書は講演速記であるため、史料の引用はない。
- ※5 それまでの藩政の中心人物として活躍した周布政之助(すふ まさのすけ)も当日自刃した。
- ※6 しわざ。振る舞い。物事の起こった原因。
- ※7 『毛利忠正公盛徳記 附録香山勅碑銘義解』による。
- ※8 口頭で諭し告げること。
- ※9 主君に近侍し、身辺の雑用をたす武士。
- ※10 主君のそば。
- ※11 政治上の事柄・仕事。
- ※12 「旧御小姓井上定亮翁談話」による。
- ※13 「旧御小姓井上定亮翁談話」による。なお、原文の表現を一部改めています。
- ※14 藩主が、その土地と人民を朝廷に返還すること。
- ※15 萩生まれの元萩藩士。幕末の藩政府や新政府で活躍した。
- ※16 戊辰戦争。
- ※17 『忠正公勤王事績』による。なお、原文の表現を一部改めています。
- 【参考文献】
- 淺川均「毛利家と野田神社」『激動の幕末長州藩主 毛利敬親』展示図録 2018
- 上符達紀「毛利敬親勅撰銅碑と毛利家-勅撰銅碑の撰文をめぐって-」『山口県地方史研究』119 2018
- 木戸公傅記編纂所『松菊木戸公傅』下 1927(復刻版1996)
- 「旧御小姓井上定亮翁談話」(毛利家文庫 山口県文書館蔵)
- 作間久吉『毛利忠正公盛徳記 附録香山勅碑銘義解』1924
- 司馬遼太郎『世に棲む日々』(2) 1975
- 中原邦平『忠正公勤王事績』1911(復刻版2008)
- 日本史籍協會『木戸孝允日記』1、2 1932(再刊1996)
- 三宅紹宣「毛利敬親と幕末の長州藩」『激動の幕末長州藩主 毛利敬親』展示図録 2018
- 山﨑一郎「語られていく敬親」『激動の幕末長州藩主 毛利敬親』展示図録 2018 など
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