ここから本文

2018年6月22日号 vol.338

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/激動の幕末期 長州の藩主 毛利敬親

写真:(左)敬親が羽賀台大操練で着用したと伝わる「白地桐唐草文様陣羽織」(毛利博物館蔵)。 (右)毛利敬親像(山口県立山口博物館蔵)。イタリアの銅版画家が明治時代、生前の写真を基に制作。どちらも明治150年記念特別展「激動の幕末長州藩主 毛利敬親」で展示

第2回 志を育んだ幕末のリーダー

幕末、萩藩13代藩主として、明治維新の達成に大きく貢献した毛利敬親。
どんなリーダーだったのかをご紹介します。

山口県立美術館 明治150年記念特別展「激動の幕末長州藩主 毛利敬親」
今年は明治改元から150年。明治維新の達成に大きく貢献した毛利敬親の生涯と事蹟(じせき)を中心に、幕末・明治期の毛利家の活動などを、重要文化財を含む約200点の歴史資料と美術工芸品で紹介します。
期間: 7月13日(金曜日)から8月26日(日曜日)まで
場所:山口県立美術館

毛利敬親(もうり たかちか)は、長州の本藩である萩藩(※1)の藩主としてさまざまな改革を行い、時代を動かす有能な人材も育んだ、幕末のリーダーでした。

「格非心(ひしんをただす)」という、敬親がある家老に与えた書があります(※2)。それは敬親が、自身の姿勢に非があれば率直に批判してほしい、という意を暗示し与えたものと考えられています。そうした姿勢を持った敬親による改革の一つが、軍備の増強です。当時は太平の世が続き、軍備はなおざりとなり、そのことは藩士の士気にも響きました。しかし、中国のアヘン戦争を機に、列強の脅威が明らかに。敬親は家臣(※3)の提言を受け、200年ぶりとなる大軍事演習を決意。自ら事前にその地を踏査し、当日は陣羽織に陣笠姿で馬に乗り、約1万4千人の兵を鼓舞(※4)。敬親25歳の時のことです。後に萩藩が、無謀な攘夷戦争を実行して現実を知り、軍制改革などを経て、幕長戦争では幕府方に事実上勝利していく、その種は、敬親によってまかれたといえます。

敬親をしのび、品川弥二郎らによって移築・保存された茶室「露山堂」

敬親は人材の登用においても改革者でした。従来、藩の人事は門閥(※5)によって決まっていました。しかし敬親は実力のある者を抜てき・登用。そうした中から、志さえあれば身分を問わない当時としては画期的な軍隊「奇兵隊」を創設する高杉晋作(たかすぎ しんさく)の活躍が生まれ、また、下級武士らの活躍の礎も築かれました(※6)

また、江戸時代は格式が重んじられ、家臣が藩主に直言(※7)することはできない決まりとなっていました。ただし、茶室であれば別。敬親は萩城内の茶室に家臣を招き、茶事に事寄せ話す機会を設けました。200年余にわたる藩政の拠点・萩を離れ、新拠点と定めた山口に御屋形(山口城)を築いた後も敬親は構内に茶室を設置。その茶室「露山堂(ろざんどう)(※8)」で、家臣らと国事にまつわることなどを話したといいます。

明治維新後、山口の御屋形は藩庁、県庁となり、露山堂は不要となります。露山堂は民間に払い下げられ、移築されますが、次第に老朽化。明治22(1889)年、松下村塾で学び、明治政府で活躍していた品川弥二郎(しながわ やじろう)(※9)が山口へ来て露山堂の現状を知り、敬親の業績を記念するため永遠に保存したいと動き始めます。多くの人々から寄付が集まり、露山堂は2年後、敬親の墓所がある香山(こうざん)公園へ。敬親の死から20年の節目の年のことでした。

幕末期、禁門の変や幕長戦争など多難が続き、藩の内部でも保守派と改革派の対立、内戦などを通して多くの人材を失う悲劇が続いた萩藩。それでも、死後も慕われ続けた敬親。そのことは、家臣らの声に耳を傾け、人々が活躍できる環境を整え、彼らの志を育んだ、リーダーとしての実像を伝えてくれます。


毛利敬親書「格非心」(山口県立山口博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

毛利敬親書「格非心」(山口県立山口博物館蔵)。敬親が家老の浦靫負に与えたもの。「自身の姿勢に非があれば率直に批判してほしい」という敬親の意を暗示したものと考えられている
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「毛利敬親像」制作中の写真(画像提供 萬鉄五郎記念美術館)/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

山口市の亀山公園山頂広場にかつてあった毛利家銅像6基の一つ、「毛利敬親像」制作中の写真(画像提供 萬鉄五郎記念美術館)。旧家臣らの企画により、羽賀台大操練のときの姿として制作され、明治33(1900)年に建立された。制作は日本の洋風塑像(そぞう)の先駆者・長沼守敬(ながぬま もりよし)。なお、現在の銅像は当時のものとは異なる
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

山口市香山公園にある「露山堂」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

山口市香山公園にある「露山堂」。現在は山口市が管理し、露山堂茶会の皆さんによって定期的にお茶会が催されている。近くには毛利敬親の墓所や、国宝の「瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔」などがある
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。


  • ※1 『山口きらめーる』おもしろ山口学では、本藩を萩藩と表記し、本藩と支藩などを合わせた全体を長州(現在の山口県)と表記しています。本文※1へ戻る
  • ※2 敬親が浦靫負(うら ゆきえ)に与えた書。『孟子』の「唯(た)だ大人(たいじん)のみ能(よ)く君心の非を格(ただ)すを為(な)す」から出たものと考えられている。大人とは徳の高い立派な人のこと。本文※2へ戻る
  • ※3 敬親から抜てきされ、萩藩の天保改革で活躍した萩藩士・村田清風(むらた せいふう)。本文※3へ戻る
  • ※4 天保14(1843)年4月1日、現在の萩市福栄(ふくえ)地域で行われた「羽賀台(はがのだい)大操練」。本文※4へ戻る
  • ※5 家格。本文※5へ戻る
  • ※6 万延元(1860)年には、木戸孝允(きど たかよし)の推薦で、後に萩藩の軍制改革を行う大村益次郎(おおむらますじろう)を兵学者雇として採用。やはり後に明治政府で活躍する品川弥二郎や伊藤博文(いとう ひろぶみ)、山縣有朋(やまがた ありとも)らも、こうした取り組みの中から栄達の道が開かれた。本文※6へ戻る
  • ※7 思っていることを相手に遠慮せず、直接はっきりと言うこと。本文※7へ戻る
  • ※8 現在の山口県庁の駐車場の地に、かつて「一露山」という小山があり、その麓に茶室があった。本文※8へ戻る
  • ※9 明治時代、内務大臣などを務め、日本の殖産興業に尽力した。晩年、京都の別邸に尊攘堂を設立して志士の遺墨(いぼく)など貴重な関係史料を集めて保存を図り、それらは現在、京都大学で受け継がれている。本文※9へ戻る
【参考文献】
臼杵華臣『露山堂略史』1975
NHKなど『2015年NHK大河ドラマ特別展「花燃ゆ」』展示図録2015
小山良昌『名君 毛利敬親』2017
作間久吉『亀山園の記』1927
長沼守敬とその時代展実行委員会『長沼守敬とその時代展』2006
日野政治『露山堂の略記』1909
山口県教育会『村田清風全集』上巻 1961など
おもしろ山口学バックナンバー

ページの先頭へ戻る



ページの先頭へ