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2018年4月27日号 vol.336

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/萩藩の軍制を動かした西洋太鼓と来原良蔵

写真:「皷譜(長門練兵場蔵版)』(山口県文書館蔵)。「場所ニ集会」と記されている。集合の号令を表すリズムパターン

萩藩の軍制を動かした西洋太鼓と来原良蔵

幕末、西洋式軍制とともに西洋太鼓(スネアドラム)が日本に入ってきました。西洋太鼓や西洋銃陣の導入に向けて志を貫いた来原良蔵を紹介します。

山口県文書館「アーカイブズウイーク」
文書記録の重要性などをPRする目的で行われるイベントで、今年は「レキシノオト-『音』で読み解く防長の歴史‐」をテーマに開催します。鼓譜(皷譜)などについてのギャラリートークのほか、歴史小話、書庫見学ツアーなどが行われます。
期間:6月1日(金曜日)から10日(日曜日)まで

山口県文書館に、碁石を線でつなぎ合わせたような不思議な記号が連なる歴史資料があります。それは慶応2(1866)年に萩藩が刊行した西洋太鼓(スネアドラム。陣鼓)の楽譜『皷譜(こふ) (長門練兵場(※1)蔵版)』です。

萩藩では、安政6(1859)年に軍制を改革して陸軍の隊列「西洋銃陣(※2)」を本格的に取り入れ、慶応元(1865)年に幕長戦争が迫ると、西洋式軍制の導入をさらに徹底して進めました。西洋銃陣では、号令や西洋太鼓による一斉の行動が欠かせず、そのため多くの鼓手を急ぎ育てる必要がありました。鼓手となる人は、和太鼓とは異なる西洋太鼓を用い、「進め」「止まれ」などの指示を表すリズムパターンを正確に覚えなければなりません。そこで刊行されたのが、左右の手の動きやリズムパターンを図で分かりやすく示した皷譜でした。

「進め! 止まれ!」子どもたちも集めて練習!! 熱血の志士・来原良蔵

この皷譜の刊行以前、人々の西洋銃陣への理解がいまだ乏しかった頃、志を断固貫いて西洋太鼓を練習し続け、藩に西洋銃陣を採用させた萩藩士がいます。その人の名は来原良蔵(くりはら りょうぞう)(※3)。吉田松陰(よしだ しょういん)の親友だった人物です。良蔵は西洋銃陣に早くから注目し、黒船来航後、藩命で相模国(さがみのくに。現在の神奈川県)警備に赴くと、幕臣(※4)から西洋銃陣を個人的に学びます。しかし、志半ばで帰藩。安政4(1857)年再び相模国へ警備に赴くことになり、今度こそと決心します。現地では、萩藩の支藩の藩士ら(※5)と意気投合。共に西洋銃陣を普及しようと語り、同志となります。

良蔵は西洋太鼓の代わりに、飯びつに厚紙を張り、麻縄で肩からつるし、昼夜の別なく練習するようになります。待望の西洋太鼓を入手するとますます没頭。練習に出掛けるときは、人目を避けて西洋太鼓を風呂敷に包んで陣営の門を出るものの、帰りは熱中するあまり、夜中でも西洋太鼓をたたき、歩調を合わせながら自分でも気付かぬうちに門をくぐるようになります。他の藩士らからは、日本の兵法を捨てるのかと非難の声が高まりますが、良蔵は実戦での利を熱く説き、漁師の子どもたちを集めてまで「進め! 止まれ!」と練習。良蔵の行動は問題となり、藩政府から帰藩、謹慎を命じられます。

しかし、藩政府はひそかに西洋銃陣の採用を考えており、良蔵は安政5(1858)年、藩士を率いて長崎へ行ってオランダ人から西洋銃陣を伝習するよう命じられます(※6)。良蔵は伝習生となった藩士らを長崎で厳しく指導。ある伝習生(※7)は「足の痛みは甚だしく、座ることもできない」「良蔵兄は大いにお勉強され、号令は原語(オランダ語)にて、一向に分かりも覚えられもしない」と友への手紙で嘆いたほどでした。

伝習は成果を収め、その後、萩藩は西洋銃陣を採用します。萩藩が幕長戦争で勝利し、日本の歴史を動かしていった陰には、志を貫いた良蔵のような人々の存在もあったのでした。


「報国隊(ほうこくたい)太鼓」(下関市立歴史博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「報国隊(ほうこくたい)太鼓」(下関市立歴史博物館蔵)。報国隊は幕末、萩藩の支藩・長府藩の藩士が結成した長府藩公認の有志隊。幕長戦争などで戦った。報国隊も西洋太鼓や軍服を用いていた
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「御武具覚書」(山口県文書館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「御武具覚書」(山口県文書館蔵)。日本古来の兵法では、戦場での命令伝達では和太鼓・鉦(かね)・陣貝(ホラ貝)などを使用。歩調を合わせて行進することはなかった
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「三谷国松(みたに くにまつ)・高杉晋作(たかすぎ しんさく)・伊藤俊輔(いとう しゅんすけ)写真」(下関市立東行記念館蔵)/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「三谷国松(みたに くにまつ)・高杉晋作(たかすぎ しんさく)・伊藤俊輔(いとう しゅんすけ)写真」(下関市立東行記念館蔵)。伊藤俊輔は伊藤博文(写真向かって右端)。博文は来原良蔵に可愛がられ、相模国警衛中、読書や体づくりを鍛えられ、「愚痴と弱音は武士の禁物」と教わり、後年「恩師」としてしのんだ
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  • ※1 萩藩が設けた軍事教練場。本文※1へ戻る
  • ※2 銃陣とは、銃で武装した兵隊からなる陣のこと。本文※2へ戻る
  • ※3 「くるはら りょうぞう」という読み方もある。萩藩重臣の周布政之助(すふ まさのすけ)や、来嶋又兵衛(きじま またべえ)、桂小五郎(かつら こごろう)とも親交が深かった。本文※3へ戻る
  • ※4 ペリー来航時、折衝に当たった浦賀奉行与力・中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)。本文※4へ戻る
  • ※5 長府藩(現在の下関市)、徳山藩(現在の周南市・下松市など)、岩国領(現在の岩国市)の藩士たち。本文※5へ戻る
  • ※6 安政2(1855)年、幕府がオランダ人を教師として開設した長崎海軍伝習所。海軍だけでなく、陸軍(西洋銃陣)の伝習も行った。安政6(1859)年閉鎖。本文※6へ戻る
  • ※7 松陰の門下生で、良蔵と親しかった前原一誠(まえばら いっせい)。本文※7へ戻る
【参考文献】
小川亜弥子『幕末期長州藩洋学史の研究』1998
梶田清七『防長吹奏楽史』1989
妻木忠太『来原良蔵伝』上・下 1940
三原清堯『来嶋又兵衛伝』1963
三宅紹宣『幕長戦争』2013など
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