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2018年3月23日号 vol.335

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/本藩との関係で揺れた徳山藩の歴史

写真:(左)絵はがき「徳山市毛利公邸(徳山毛利邸)」(周南市美術博物館蔵)。御館(城)の地に大正時代に建てられたもの。現在、その地に周南市文化会館がある。(右)「御紋御旗御指物合印図」(山口県文書館蔵)より萩の毛利家と徳山毛利家の旗印。「一に三つ星」の「一」が異なる。徳山毛利家の旗は右端

本藩との関係で揺れた徳山藩の歴史

萩藩の支藩・徳山藩。萩藩と一時対立し、幕府による改易を経て、再興を果たした藩です。幕末には、萩藩との結び付きが増し、それ故、悲劇の舞台に。徳山藩の歴史をご紹介します。

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城下町・徳山コースでは、徳山毛利家墓所や、今も残る江戸時代の街路などを巡ります。

長州(現在の山口県)にはかつて、本藩である萩藩の他に、四つの支藩がありました(※1)。そのうちの一つ、徳山藩の歴史は、元和3(1617)年、毛利輝元(もうり てるもと)から、その次男で、萩藩初代藩主の弟である毛利就隆(もうり なりたか)に、萩藩の領地の一部、都濃(つの)郡(※2)の3万石余が分与されたことに始まります。就隆は御館を初め下松(くだまつ)に置きますが、やがて野上(のがみ)へと移転。その地を徳山と改め、藩主のお膝元として整備していきました。

正徳5(1715)年、徳山藩第3代藩主の時、藩の歴史が途絶えることになる「万役山(まんにゃくやま)事件」が起きます。萩藩(※3)と、境界上のわずか1本の松の木の伐採を巡って対立。その解決が難航し、幕府の介入を招き、徳山藩の改易(※4)にまで発展したのです(※5)。しかし、旧臣・奈古屋里人(なごや さとんど)らの運動や、萩藩主の幕府への願い出により、3年後、徳山藩は再興を許されました(※6)。徳山藩のように他家から藩主を迎えることなく、しかも同じ地で再興できたのは、全国的にも珍しい例でした。

まちの各所に残る石碑が物語る城下町徳山の歴史

幕末、第9代藩主・毛利元蕃(もとみつ)の時には、弟である元徳(もとのり)が幕末の萩藩主・敬親(たかちか)の世子(せいし。後継ぎ)となり、徳山藩は萩藩との絆を強めます。

元治元(1864)年、「禁門の変(※7)」で敗れた萩藩は、朝廷の命を受けた幕府から征討(第一次)を布告されます。苦境に陥った中、萩藩だけでなく徳山藩も家臣が二派に分れて対立。幕府に完全な恭順を主張する保守派が台頭し、対立する藩士らを弾圧していきます。徳山藩では、7人の藩士が保守派によって殺害された上、藩主から家名断絶、屋敷地も没収される「徳山七士(※8)」の悲劇を生みます。その中には、後に日露戦争などで名を知られる陸軍大将・児玉源太郎(こだま げんたろう)の義兄も含まれていました。

また、徳山は、禁門の変の責任を負った萩藩の3人の家老の幽閉の地となり、そのうち2人(※9)は徳山で自刃。残る1人(※10)は徳山藩主・元蕃の兄だったため、さらに岩国へ送られて自刃。そうした3人の家老の犠牲などによって、萩藩は第一次長州征討から免れます。

やがて慶応元(1865)年、萩藩の藩論が武備恭順(※11)へ転換。徳山藩も藩論を転換し、藩主は初代藩主をまつる霊社(※12)で、自身の未熟さによって家臣らの不和を招いたと自戒を述べ、徳山七士の家を再興させます。

時を経て、昭和20(1945)年、かつての城下町徳山の多くは空襲で焼失し、戦後の復興の中で新たなまちづくりが行われ、往時の面影は失われたと思われてきました。しかし今、江戸時代の古地図を手にまちを歩くと、城下町の街路が実は豊かに残っていることに驚かされます。まちの各所には、旧藩士の子孫らによって昭和初期などに建てられた徳山七士の誕生地や、萩藩の家老の最期の地などを示す石碑があり、徳山藩の歴史を伝えてくれます。


江戸時代、徳山藩の作事方(建築工事を担当する役所)がそこにあったことを示す石碑の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

江戸時代、徳山藩の作事方(建築工事を担当する役所)がそこにあったことを示す石碑。周南市美術博物館東側の歩道そばに立つ。こうした石碑がかつての城下町の各所にある
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絵はがき「周防徳山毛利邸跡」(周南市美術博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

絵はがき「周防徳山毛利邸跡」(周南市美術博物館蔵)。御館(城)の地には、昭和10(1935)年に徳山公園が整備され、一帯は桜の名所に。昭和20(1945)年、徳山毛利邸は空襲で焼失。昭和23(1948)年に毛利球場(現在の周南市文化会館の地)が造られ、昭和35(1960)年に徳山動物園が開園。写真は徳山公園に至るかつての桜並木
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絵はがき「亀山園・徳山支藩主銅像 従三位毛利元蕃卿」(山口県文書館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

絵はがき「亀山園・徳山支藩主銅像 従三位毛利元蕃卿」(山口県文書館蔵)。山口市亀山公園山頂広場にあった全6基からなる「毛利家銅像」の一つ。明治33(1900)年4月竣工。昭和19(1944)年2月に兵器用として供出され、現存しない
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  • ※1 長府藩(現在の下関市など)・徳山藩(現在の周南市など)・岩国藩(現在の岩国市など)・清末(きよすえ)藩(現在の下関市)。なお、岩国藩は1868(明治元)年に藩として公式に認められるまでは岩国領。清末藩は長府藩の支藩。本文※1へ戻る
  • ※2 現在の周南市・下松市など。本文※2へ戻る
  • ※3 当時の萩藩主は、元長府藩主の毛利吉元(よしもと)。萩の毛利本家の嫡流が断絶したため、長府毛利家から本家を相続。なお、長府藩の藩祖・秀元(ひでもと)は、輝元のいとこ。本文※3へ戻る
  • ※4 武士の身分を取り上げ、領地、家祿(かろく)、屋敷などを没収すること。本文※4へ戻る
  • ※5 徳山藩第3代藩主・毛利元次(もとつぐ)は新庄藩(現在の山形県新庄市など)に、家族は萩藩へお預け、領地は萩藩へ還付となった。本文※5へ戻る
  • ※6 元次の嫡男が第4代藩主に。元次は徳山へ帰ることなく、病死した。本文※6へ戻る
  • ※7 「8月18日の政変」で京都を追われた萩藩が再起を図り、兵を率いて上京し、会津藩、鹿児島藩の兵と京都御所蛤(はまぐり)御門などで起こした元治元(1864)年7月の戦い。本文※7へ戻る
  • ※8 藩校の教授を務めた本城清(ほんじょう きよし)。清の弟の江村彦之進(えむら ひこのしん)。浅見安之丞(あさみ やすのじょう)、安之丞の弟で、児玉源太郎の義兄の児玉次郎彦(じろうひこ)。槍の名手だった信田作太夫(しだ さくだゆう)。長州の諸隊の一つ、先鋒隊の元締役を務めた河田佳蔵(かわた かぞう)。「七卿落ち」の際に護衛を務めた井上唯一(いのうえ ただいち)。本文※8へ戻る
  • ※9 益田親施(ますだ ちかのぶ)、国司親相(くにし ちかすけ)。本文※9へ戻る
  • ※10 福原元僴(ふくばら もとたけ)。本文※10へ戻る
  • ※11 対外的には幕府に恭順するが、内では武備を充実させていくこと。本文※11へ戻る
  • ※12 現在、かつての御館(城)の地の一画、周南市徳山動物園の西に位置する、祐綏(ゆうすい)神社境内にある。本文※12へ戻る
【参考文献】
小川宣『徳山地方の石碑 徳山開府350年記念』2000
周南市美術博物館編『凛‐徳山毛利家 開府三六○年』2010
徳山市史編纂委員会『徳山市史』上 1984
中村大介「第5章 享保初期政権に関する一考察」『近世国家の権力構造‐政治・支配・行政‐』2003
山口県編『山口県史 史料編 近世7』付録 2014
山口県教育委員会編『山口県の近代和風建築 山口県近代和風建築総合調査報告書』2011など
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