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2018年2月23日号 vol.334

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/長州人と鉄道 第2回 日本の鉄道の黎明期を支えた技師 飯田俊徳と長谷川謹介

写真:(左)飯田俊徳肖像写真(松陰神社蔵)。(右)台湾の台北(タイペイ)駅前にあった長谷川謹介銅像写真。『工学博士長谷川謹介伝』(山口県立山口図書館蔵)より。建立は明治44(1911)年。銅像は現存しない

第2回 日本の鉄道の黎明期を支えた技師 飯田俊徳と長谷川謹介

日本の鉄道の黎明期(れいめいき)には、幕末の長州生まれの技師たちの活躍がありました。日本人技師を育てた「松下村塾」出身者と、その教え子で台湾縦貫鉄道の完成に力を尽くした人物を紹介します。

萩博物館 企画展「萩の鉄道ことはじめ」
井上勝をはじめ、萩ゆかりの人々が鉄道を通じて日本の近代化に貢献したことに注目し、萩と鉄道の関わりを紹介。ジオラマ模型の展示や、特製缶バッジが当たるクロスワードパズルなども楽しめます。
開催期間:4月8日(日曜日)まで
場所:萩博物館

近代日本における鉄道事業の急速な展開の陰には、お雇い外国人の力添えに加えて“鉄道の父”井上勝(いのうえ まさる)をはじめ、多くの日本人技師たちの奮闘もありました。その1人が弘化4(1847)年に萩で生まれた飯田俊徳(いいだ としのり)です。俊徳は11歳で「松下村塾」に入り、師の吉田松陰(よしだ しょういん)から「書を読むこと河の如(ごと)し」と称賛された少年でした。「少年時代は早く過ぎ去るもの。20歳30歳はたちまちの間。今こそ勉強すべき」といった詩を松陰から贈られた俊徳は、師の教えの通り、その後、大村益次郎(おおむら ますじろう)(※1)に蘭学などを学び、慶応3(1867)年には萩藩の命令で欧米へ渡航。オランダでは士官学校や国立工科大学で学び、新橋‐横浜間鉄道開通の翌年、明治6(1873)年に帰国。工部省に入ります。

日本の鉄道は当時、測量・設計の技師や現場監督、汽車の機関士も、お雇い外国人に頼って費用がかさみ、意思の疎通も不十分な状況でした。鉄道局長の井上勝は、鉄道事業の自立のために日本人技師を速やかに養成すべきと考え、明治10(1877)年「工技生養成所」を大阪駅に創設。その工技生養成所でただ一人の日本人教師となったのが、オランダで土木工学を学んだ俊徳でした。翌年始まった京都‐大津間の鉄道建設では、俊徳が工技生養成所の教え子らを指揮。師弟一丸となり、初めて日本人の力だけで鉄道建設を成し遂げました。

台湾縦貫鉄道を完成させた長谷川謹介

その俊徳の教え子の中に、安政2(1855)年、千崎村(現在の山陽小野田市)生まれの長谷川謹介(はせがわ きんすけ)がいます。謹介は少年時代、両親を嘆かせたほど勉強嫌いの暴れん坊でした。大阪の造幣局にいた兄・為治(ためじ)(※2)が心配して呼び寄せ、英語などを学ばせると、謹介の語学はめきめきと上達。井上勝の目に留まり、鉄道寮(※3)へ。お雇い外国人の通訳をしながら測量を手伝い、工技生養成所の一期生となったのでした。

謹介は俊徳の総監督の下、トンネル工事の機械化の先駆的事業「柳ケ瀬隧道(ずいどう)(※4)」掘削や、当時の日本で最長の鉄橋「天竜川橋梁(きょうりょう)(※5)」の架橋などを指揮し、名を高めます。明治32年(1899)には台湾総督府の鉄道敷設部技師長に抜てきされ、台湾へ。難工事の末、明治41(1908)年「台湾縦貫鉄道」を完成させます。

技師として強力なリーダーシップを発揮した謹介。井上勝からは「大抵負け惜しみの強い者でも長谷川の技倆(ぎりょう)を見ては推服(※6)するであら(ろ)う」と激賞されたといいます。そんな謹介は雷をよく落とすことでも有名で、ある時、駅を視察中、1本のボルトが落ちているのを見付け「小さなことから一大事の結果を生じるのだ」と部下たちを叱り付けたといい、一方で部下が病気になると非常に心配する、人間味豊かな人だったといいます(※7)

謹介は大正7(1918)年、鉄道院副総裁を最後に勇退。外国への依存から脱却し、日本人技師の速成を目指した井上勝の志が、俊徳・謹介の師弟をはじめ、後に続く人々を次々と育んでいったのです。


長谷川謹介銅像制作時の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

長谷川謹介銅像制作時の写真。向かって右側に制作者である彫刻家・長沼守敬(ながぬま もりよし)が立つ(画像提供 萬鉄五郎記念美術館)。長沼守敬は山口市亀山公園に明治33(1900)年に建立された毛利家銅像の制作も手掛けた。
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飯田俊徳が工技生養成所の教え子らと共に、初めて日本人の力だけで完成させた京都‐大津間の逢坂山(おうさかやま)トンネル落成当時の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

飯田俊徳が工技生養成所の教え子らと共に、初めて日本人の力だけで完成させた京都‐大津間の逢坂山(おうさかやま)トンネル落成当時の写真。『子爵井上勝君小伝』(山口県立山口図書館蔵)より
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長谷川謹介が手掛けた天竜川鉄橋の竣工当時の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

長谷川謹介が手掛けた天竜川鉄橋の竣工当時の写真。現在の鉄橋とは異なる。『子爵井上勝君小伝』(山口県立山口図書館蔵)より
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  • ※1 鋳銭司村(すぜんじむら、現在の山口市)出身の医師。後に兵学者となり、萩藩の軍制を改革。明治維新後、新政府で近代兵制の確立に着手したが、浪士に襲撃され、その傷がもとで死去。本文※1へ戻る
  • ※2 明治3(1870)年に造幣局に入局。明治26(1893)年から大正2(1913)年まで造幣局長。井上勝と親しい仲だった。なお、初代造幣局長は「長州五傑」の一人・遠藤謹助(えんどうきんすけ)。本文※2へ戻る
  • ※3 官設鉄道の管轄機関は、明治3(1870)年設置の鉄道掛(がかり)に始まり、鉄道寮、鉄道局、鉄道庁、鉄道局、帝国鉄道庁、明治41(1908)年設置の鉄道院へと推移。本文※3へ戻る
  • ※4 滋賀県と福井県の県境に造られた鉄道トンネル。道路トンネルとして現存。建設当時、ダイナマイトや削岩機、エアーコンプレッサーなどを使用した先駆的な工事だった。山口県からも現場見学へ赴き、その知見は明治期の道路隧道として国内第3位の長さを誇った佐波山隧道(現在の山口市と防府市を結ぶ国道262号のトンネル)建設の際、伝えられた。なお、隧道とはトンネルのこと。本文※4へ戻る
  • ※5 静岡県にある東海道本線の橋。現在の橋梁とは異なる。本文※5へ戻る
  • ※6 心服。本文※6へ戻る
  • ※7 謹介の死後、謹介の指導を受けた人々などによって編纂(へんさん)された『工学博士長谷川謹介伝』による。本文※7へ戻る
【参考文献】
淺川均「鉄道人 長谷川謹介」『わが町の鉄道史 小野田線を歩く』2003
石井元章「長沼守敬作≪水野遵像≫と≪長谷川謹介像≫について台北設置作品制作経緯の再構築の試み」『藝術文化研究』19 2015
海原徹『松下村塾の人びと‐近世私塾の人間形成』1993
海原徹『吉田松陰と松下村塾』1999
小野田滋「鉄道人物伝No.4鉄道技術の国産化に貢献した松下村塾の俊才 飯田俊徳」『RRR』Vol.74 No.7 2017
鉄道史学会『鉄道史人物事典』2013
道迫真吾『長州ファイブ物語-工業化に挑んだサムライたち-』2010
中濱武彦『開拓鉄道に乗せたメッセージ-鉄道院副総裁 長谷川謹介の生涯』2016
日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 通史』1975
萩博物館編『松下村塾開塾150年記念 吉田松陰と塾生たち』2007
長谷川博士伝編纂会『工学博士長谷川謹介伝』1937
山口県教育会編『吉田松陰全集』4、9、10 1974
山口県史編さん室『山口県史 史料編 近代4』2003
山口県史編さん室「山口県史だより」18 2001
萬鉄五郎記念美術館『長沼守敬とその時代展』2006など
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