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2017年11月24日号 vol.331

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/新発見史料から見る薩長盟約 -坂本龍馬と三吉慎蔵の寺田屋事件-

写真:(左) 「三吉慎蔵肖像写真」(個人蔵・下関市立歴史博物館寄託)。(右)「坂本龍馬肖像写真」(個人蔵・下関市立歴史博物館寄託)。寺田屋事件後、2人は親友となり、龍馬は万一の場合は妻のことを頼むと慎蔵に頼んでいた

新発見史料から見る薩長盟約 -坂本龍馬と三吉慎蔵の寺田屋事件-

下関市立歴史博物館で開催中の坂本龍馬没後150年記念特別展「龍馬がみた下関」では、薩長盟約に関する新史料が話題となっています。その新史料を中心に薩長盟約を紹介します。

坂本龍馬没後150年記念特別展「龍馬がみた下関」
下関は、龍馬が妻・お龍(りょう)と新婚生活を送った地。「寺田屋事件」を機に親友となった三吉慎蔵をはじめ、下関の人々との交流を中心に龍馬の足跡を紹介するとともに、今回発見された新史料も展示しています。
開催期間:12月10日(日曜日)まで
場所:下関市立歴史博物館

幕末史上有名な「薩長盟約(同盟)」。文久3(1863)年の「8月18日の政変」以降、犬猿の仲となった薩摩と長州(※1)が一転して手を結び、倒幕へと時代を動かした「軍事同盟」として従来知られてきました。しかし実は、盟約について鹿児島藩側が約束した史料が未発見であることなどから、軍事同盟ではなかったのではといった諸説が近年論じられています(※2)。そうした中、新史料(※3)が下関市立歴史博物館の展示のための調査で発見され、話題となっています。

薩長和解への動きは、福岡藩をはじめ、多くの人々によって生まれたものでした(※4)。その後、第二次長州征討が迫る中、坂本龍馬(さかもと りょうま)らの仲介で、萩藩士の木戸孝允(きど たかよし)と鹿児島藩士の西郷隆盛(さいごう たかもり)らが、慶応2(1866)年1月に京都で会談することが決定。龍馬も京都へ赴くに当たって長府藩(※5)に同行者を求め、槍(やり)の名手、長府藩士・三吉慎蔵(みよし しんぞう)が同行することになります。慎蔵は龍馬の護衛ではなく、長府藩の命令で「時勢探索」を目的とした同行でした(※6)

1月中旬、京都で薩長会談はひそかに行われ、この時の合意が薩長盟約とされます。龍馬は会談を見届けた後、伏見(ふしみ)にあった旅籠(はたご)「寺田屋」へ。慎蔵と祝杯を挙げていたところ、突然、幕府の役人に襲撃されます(寺田屋事件)。龍馬は手に重傷を負いながらも、慎蔵の援護で、共に近くの材木置き場へ脱出。2人は命からがら、伏見の鹿児島藩邸にかくまわれることになりました。

寺田屋事件のわずか数日後に薩長盟約の情報は漏れていた!!

今回発見の新史料は、京都にいた鳥取藩士が、寺田屋事件のわずか数日後に鳥取藩へ送った手紙の記録で、およそ次のような情報が記されていました。

「坂本龍馬という者が先月(1月)24日(※7)に京都を出て寺田屋に一泊していたところ、召し捕られそうになったが切り抜け、伏見の鹿児島藩邸に逃げ込んだ。荷物は宿に残され、調べたところ(薩摩側が)長州人と相談したことを記した書面などがあった。長州に関する(幕府の)処分(※8)が寛大だったとしても(長州は)決して受け入れず、反対に大人数で上京して、朝敵からの回復を(朝廷に)嘆願した際には、(鹿児島藩が幕府勢の)会津藩(※9)を京都から追い払うことに必ず協力するという、長州への返書などを所持していたようだ」。

これにより、萩藩の木戸孝允が率兵上京を考えていたことや、それに協力すると約束した、西郷隆盛からと推測される返書もあったことが初めて見えてきました。薩長が連携したことは諸藩へも伝わり、その後の動向に影響を与えたと考えられます。それにしても、当事者以外の藩に薩長盟約の情報がこんなにも早く筒抜けだったことには驚かされます。

それまでの両藩の溝を埋めた薩長盟約。新史料によって、やはり薩長の軍事行動を互いに約束したものだった可能性があらためて出てきました(※10)。欧米列強の脅威も現実化していた中、情報をいち早く捉え、どう動くべきか懸命に考えを巡らせていた先人たちの姿が浮かんできます。


新発見史料「京坂書通写 慶応二年丙寅正月より」(鳥取県立博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

新発見史料「京坂書通写 慶応二年丙寅正月より」(鳥取県立博物館蔵)。寺田屋事件後数日後、鳥取藩士が鳥取藩に事件や薩長盟約のことなどを知らせた手紙の写しで、写真の部分には寺田屋事件について書かれている
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「毛利元周(もうり もとかね)肖像画」(個人蔵・下関市立歴史博物館寄託)/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「毛利元周(もうり もとかね)肖像画」(個人蔵・下関市立歴史博物館寄託)。元周は当時の長府藩主。龍馬は長府藩士をはじめ、下関の人々と親しく交流し、長府藩もさまざまな情報をもたらす龍馬に期待していたと思われる
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「三谷国松・高杉晋作・伊藤俊輔」(下関市立東行記念館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「三谷国松(みたに くにまつ)・高杉晋作(たかすぎ しんさく)・伊藤俊輔(いとう しゅんすけ)」(下関市立東行記念館蔵)。寺田屋事件で龍馬はピストルで応戦。そのピストルは、晋作(写真中央)が龍馬に贈ったものだった。薩長盟約のため上京する直前、晋作は龍馬に会い、詩を書いて贈った(高杉晋作詩書扇面)。その時、ピストルも贈られたと考えられている。なお、その扇面は特別展で展示中
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  • ※1 『山口きらめーる』おもしろ山口学では、本藩を萩藩と表記し、本藩と支藩などを合わせた全体を長州(現在の山口県)と表記しています。本文※1へ戻る
  • ※2 薩長盟約の最も確実な史料は「木戸孝允書簡 坂本龍馬宛 慶応2年1月23日付」。また、盟約の成立日についても諸説ある。本文※2へ戻る
  • ※3 「京坂書通写 慶応二年丙寅正月より」鳥取県立博物館蔵。鳥取藩の京都・大坂留守居の手紙を鳥取藩が写した記録。鳥取藩の伏見の藩邸は、龍馬と慎蔵が逃げ込んだ材木置き場や寺田屋の近くにあった。本文※3へ戻る
  • ※4 おもしろ山口学バックナンバー参照。薩長盟約を支えた長府藩士や中岡慎太郎(2012年11月9日号 Vol.240)本文※4へ戻る
  • ※5 現在の下関市の多くを領地とした藩。萩藩の支藩の一つ。本文※5へ戻る
  • ※6 慎蔵は長州に帰った後、長府藩主だけでなく、萩藩主へも京都での一件を報告に行き、萩藩主からは褒賞として、じかに刀を賜った。本文※6へ戻る
  • ※7 実際には1月24日ではなく、1月23日。本文※7へ戻る
  • ※8 長州勢は、8月18日の政変で失った政治的復権を朝廷に嘆願しようとして、元治元(1864)年の「禁門の変」で御所に向かって発砲する形になった。そのことから、朝廷から幕府に長州征討令が出された。第一次長州征討は長州勢が謝罪・謹慎することで解決。しかし、再び征討令が出され、幕府は萩藩に対し、10万石を削るとともに萩藩主の蟄居(ちっきょ)・隠居、藩主嗣子(しし)の永隠居という処分案をまとめ、応じなければ進撃するとした。本文※8へ戻る
  • ※9 現在の福島県西部など。本文※9へ戻る
  • ※10 その時点で倒幕まで考えていなかったことは近年明らかになっている。本文※10へ戻る
【参考文献】
家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局-体調不良問題から見た薩長同盟・征韓論政変-』2011
古城春樹『龍馬とお龍の下関 海峡に遺した夢のあと』2009
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』2004
下関市立歴史博物館編『龍馬がみた下関』2017
三宅紹宣『薩長同盟』2015
三宅紹宣『幕長戦争』2013など
おもしろ山口学バックナンバー

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