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2017年10月27日号 vol.330

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/「日本の工学の父」山尾庸三と木戸孝允の絆

写真:(左)「長州藩英国留学生写真」(萩博物館蔵)。ロンドンでの写真。写真前列左から井上馨、山尾庸三。後列左から遠藤謹助、井上勝、伊藤博文。(右)「木戸孝允写真」(萩博物館蔵)

「日本の工学の父」山尾庸三と木戸孝允の絆

幕末イギリスへ留学した5人の萩藩士、いわゆる「長州五傑」の1人、山尾庸三。今年は没後100年に当たります。兄弟のような関係だった木戸孝允との友情を軸に、庸三の生涯を紹介します。

没後100年記念企画展「日本の工学の父 山尾庸三」
平成28(2016)年に山尾家から萩に寄贈された約1,000点の資料の中から、貴重な資料の一部を初公開した企画展です。庸三が英国留学中に使っていたノコギリやカンナ、親友・木戸孝允からの手紙、家族の写真などが展示されています。
開催期間:12月3日(日曜日)まで
場所:萩博物館

「日本の工学の父」といわれる山尾庸三(やまお ようぞう)は、天保8(1837)年、二島村(ふたじまむら。現在の山口市)で生まれました(※1)。幼いころから勉強熱心で、13歳のころ萩藩士繁沢(はんざわ)氏に奉公するため萩へ。20歳のころ江戸へ行き、斎藤弥九郎(さいとう やくろう)の練兵館(※2)で学僕として働きながら学びます。当時、練兵館の塾長は木戸孝允(きど たかよし)(※3)。4歳上の孝允は、誠実な庸三を気に入って「弟を得た」と喜び、庸三が本を読むときには練兵館の自分の部屋を使わせます。庸三も孝允を慕い、「湯に行く時には共に行って背中を流し」、帰りに時々そば屋へ行くと、庸三は孝允からそばを2、3杯もごちそうに(※4)。2人は兄弟のように絆を深めていきました。

庸三は他の塾にも通い、勝海舟(かつ かいしゅう)の私塾では、航海術を学びます。やがて萩藩では、藩士の井上馨(いのうえ かおる)から請願され、藩士を密航留学させ海軍術を学ばせる話が進みます。庸三は井上勝(いのうえ まさる)と共に申し出て許され、最終的に伊藤博文(いとう ひろぶみ)と遠藤謹助(えんどう きんすけ)(※5)も加わった5人で、1863(文久3)年5月12日、横浜からイギリスへひそかに出航。資金を調達してくれた孝允らに、「生きた器械を買ったと思ってください」と覚悟を告げての旅立ちでした。

親友・木戸孝允との別れと、木戸家との新たな絆

庸三はイギリスで、“ロンドン大学初の日本人学生”の1人となります。懸命に学び、2年後には分析化学の試験で4番となり、優等賞を授与されます。慶応2(1866)年には造船を学ぶためグラスゴーへ(※6)。そして明治元(1868)年、井上勝と共に帰国します(※7)。横浜に到着して真っ先に手紙を送った相手は、政府高官となっていた孝允。庸三らは東京に呼ばれ、再会を喜び合いました。

明治3(1870)年、庸三は明治政府に出仕し、日本に工業を興すため尽力していきます。そのころ政府内では、大隈重信(おおくま しげのぶ)と伊藤博文が工業を発達させる機関として「工部省(※8)」の新設を主張し、孝允も後押ししていました。消極的な意見がある中、庸三は省として新設されなければ辞職すると主張し、最終的に彼らの念願は叶(かな)い、工部省は新設されます。さらに庸三は翌年、工業を日本人の手で発達させるため、人材を育成する工学校の設置を上申します。時期尚早の反対意見がある中、「たとえ今は工業がなくとも人を育てれば、きっとその人が工業を興すはずだ」と強く主張。明治6(1873)年「工学寮(※9)」の開校を実現させます。

明治10(1877)年1月、内閣顧問となっていた孝允は、天皇のお供をして京都へ赴きます。そのさなか、鹿児島で西南戦争が起き、京都に残ることになった孝允は、東京にいる庸三へ手紙を度々送ります。そこには長引く西南戦争の心配がつづられ、5月1日付の手紙には、1月ごろから気分が悪く、食事も進まず、10日前から伏せっていること、心配する妻を京都へ寄こすのは見合わせてほしいと記されていました。庸三は驚き、病床へ駆け付けますが、孝允はほどなくこの世を去ります(※10)。45歳の働き盛りでした。

明治21(1888)年、庸三の長女と、木戸家を継いだ孝允のおいが結婚し、庸三は亡き孝允と文字通り家族となります。その後も庸三は「工学会(※11)」の会長として工業の発展に尽力し続け、大正6(1917)年に亡くなります。葬儀の弔辞では「我が国工学界の父母」と讃えられ、その死を惜しまれました。孝允に支えられ、留学時の覚悟の通り、生きた器械となって、次代をつくる人々を育み続けた庸三の生涯でした。


庸三がイギリス留学中に使用して持ち帰り、山尾家で大切に保管されてきたノコギリ(萩博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「山尾庸三所用鋸(のこぎり)」(萩博物館蔵)。庸三は、このノコギリとカンナをイギリス留学中に使用して持ち帰り、以来、山尾家では大切に保管してきた
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「山尾庸三家族集合写真」(萩博物館蔵)/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「山尾庸三家族集合写真」(萩博物館蔵)。明治37(1904)年、鎌倉の別荘で撮影された庸三と娘、孫たちの写真
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「工学会表彰金牌(きんぱい)」(萩博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「工学会表彰金牌(きんぱい)」(萩博物館蔵)。庸三へ死去の一カ月前に工学会から贈られた庸三の肖像入り表彰メダル(萩博物館蔵)
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  • ※1 給庄屋(藩臣の給領地の庄屋)を務めた山尾家の生まれ。当時、二島村には繁沢氏の給領地があった。庸三はその後、繁沢氏の家臣となり、文久3(1863)年4月、萩藩の士雇(さむらいやとい)となった。士雇とは、萩藩に抱えられた武士に準ずる身分。 本文※1へ戻る
  • ※2 当時の江戸における三大道場の一つ。本文※2へ戻る
  • ※3 当時の名は桂小五郎(かつら こごろう)。本文※3へ戻る
  • ※4 中原邦平(なかはら くにへい)「山尾子爵経歴の概要」『温故会講演速記録』による。また、萩博物館に山尾家から寄贈された資料によれば、庸三は当時、孝允から蛤鍋(はまぐりなべ)茶漬け、天婦羅(てんぷら)鍋など、いろいろとごちそうになったという。本文※4へ戻る
  • ※5 伊藤博文は日本初の内閣総理大臣、井上馨は初代外務大臣、井上勝は「日本の鉄道の父」、遠藤謹助は「日本の造幣の父」となった。本文※5へ戻る
  • ※6 その旅費は、鹿児島藩から来た留学生たちが出し合ってくれた。本文※6へ戻る
  • ※7 先に、博文と馨は元治元(1864)年6月、謹助は慶応2(1866)年に帰国。本文※7へ戻る
  • ※8 日本の産業の近代化を推進。鉄道建設や鉱山経営、道路改修、灯台設置などを管轄。本文※8へ戻る
  • ※9 御雇外国人の教師による高等な工業技術教育機関。明治10(1877)年、工部大学校と改称。現在の迎賓館赤坂離宮を造った建築家・片山東熊(かたやま とうくま)らを輩出した。本文※9へ戻る
  • ※10 「西郷もまた大抵にせんか」と大声で叫び、亡くなったという。本文※10へ戻る
  • ※11 工部大学校の卒業生らが工学・工業の研究発展に貢献するため組織した学会。本文※11へ戻る
【参考文献】
兼清正徳『山尾庸三傳』2003
道迫真吾『長州ファイブ物語‐工業化に挑んだサムライたち-』2010
中原邦平「山尾子爵経歴の概要」『温故会講演速記録』(山口県文書館蔵)
萩博物館編『没後100年記念企画展 日本の工学の父 山尾庸三』2017など
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