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2017年8月25日号 vol.328

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/幕末の志士たちを支えた富海の飛船

写真:富海の船蔵通りにある飛船問屋・大和屋政助の船蔵。この道はかつて海に面し、現在約170メートルにわたって船蔵遺構が残る。天保期、富海には68隻の飛船があった

幕末の志士たちを支えた富海の飛船問屋

瀬戸内海に面した富海。そこにはかつて、飛船問屋が軒を連ね、今も当時の貴重な船蔵が残ります。幕末、多くの志士らから頼りにされた飛船と飛船問屋の活躍を紹介します。

「古地図を片手にまちを歩こう」
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幕末維新やまぐちデスティネーションキャンペーン・明治維新150年特別企画として、県内および島根県益田市の28カ所で「古地図を片手にまちを歩こう」が開催されます。参加者には、特典として参加コースの古地図リーフレットをプレゼント! また、スタンプラリーに参加してスタンプを15個以上集めると、古地図リーフレット全28種がセットになったコンプリートボックスをプレゼント!
防府市富海では、飛船関連などの地を、地元ボランティアガイドの皆さんの案内で歩きます(2日前までに要予約)。

富海編の開催日:9月6日(水曜日)・17日(日曜日)、10月4日(水曜日)・15日(日曜日)、11月1日(水曜日)・19日(日曜日)、12月6日(水曜日)・17日(日曜日)、平成30年3月7日(水曜日)・18日(日曜日)

瀬戸内海に臨む、山陽道の宿場町・富海(とのみ。現在の防府市)。山陽道から一筋南の路地に、かつて「飛船(とびふね)(※1)」と呼ばれた小型快速船の問屋が軒を連ねていた一画があります。そこは今、「船蔵通り」と呼ばれ、幕末の志士らを支えた飛船問屋・大和屋政助(やまとや まさすけ)の船蔵や、かつての船蔵の石積みなどが累々と残ります。

飛船とは、いわゆる飛脚船で、飛ぶように速い船が語源と考えられています。富海は元々漁業が盛んな地。富海の飛船は、1700年代、瀬戸内海各地への運送を請負った船が大坂通いを定着化させたことに始まります。大坂の商人に利用され、時には藩の御用船として借り上げられ(※2)、急な依頼にも応じたことなどから、幕末には特に志士らに頼りにされました。

例えば、文久3(1863)年、強硬に攘夷(じょうい)を訴える公家・中山忠光(なかやま ただみつ)(※3)らが、攘夷の機運を盛り上げるために討幕を掲げ、大和で挙兵した結果、幕府の追い討ちを受けて敗走を余儀なくされたときのことです。幕府方に追われた忠光は、『富海村史稿』によれば、松下村塾(しょうかそんじゅく)出身の久坂玄瑞(くさか げんずい)と入江九一(いりえ くいち)の助けを得て長州へ逃れることにし、そのとき大坂からの脱出を引き受けたのが大和屋政助の飛船でした。富海では、政助が忠光を船蔵の2階で半月ほどかくまい、自ら、忠光の朝夕の給仕に当たって世話をしたといいます。

英国留学から急きょ帰国した伊藤・井上や、晋作の危機を助けた飛船問屋

元治元(1864)年、英国留学中だった若い萩藩士、伊藤博文(いとう ひろぶみ)と井上馨(いのうえ かおる)(※4)が、英国など4カ国連合艦隊による下関砲撃事件(※5)を防ぐため、無謀な攘夷を止めるよう藩主に建言しようと、急ぎ帰国した際にも富海が関わっています。

洋行帰りで短髪に洋服姿の2人は、帰国するとまず、横浜の英国公使を訪ねて目的を告げ、英国軍艦に乗せてもらい、豊後(ぶんご。現在の大分県)姫島を目指します。姫島で漁船に乗り換え、ひそかに上陸した地が富海。『富海村史稿』によれば、2人は飛船問屋の「入本屋(いりもとや)」に入り、近くに住む旧知の志士を介して藩の状況を把握。装いをわずかに整え(※6)、入本屋へのお礼に、伊藤は舶来の手帳を、井上は洋傘を残し、攘夷で沸き立っていた山口へ向かったといいます(※7)

同年7月の「禁門の変」後、萩藩では保守派が政権を握り、高杉晋作(たかすぎ しんさく)が身の危険を感じて萩を脱出したときにも、この地が関わっています。晋作は富海へ走り、大和屋政助に飛船を依頼。政助は風雨の激しい夜にもかかわらず、屈強な船乗りを激励して出船を強行し、晋作を馬関(ばかん。現在の下関市)へ送り出します(※8)。政助は、翌朝やってきた藩の追っ手に晋作を隠しているのではと疑われると、激怒して顔色を変え、驚いた追っ手は何も言えずに去った、といいます。

やがて富海の飛船は、明治期には姿を消します。明治19(1886)年には大和屋政助が死去。その墓に揮毫(きごう)(※9)したのは、久坂玄瑞や入江九一、伊藤博文、晋作と同じ松下村塾出身の品川弥二郎(しながわ やじろう)(※10)でした。今も政助の船蔵が残る船蔵通りは、幕末の長州が、志士だけでなく、富海の人々の心意気にも支えられていたことを教えてくれます。


入本屋の記念の碑の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

伊藤博文と井上馨は英国から急ぎ帰国し、富海に上陸。飛船問屋の入本屋(入江磯七(いりえ いそしち)宅)に入って昼食をとり、装いを整え、三田尻(みたじり)経由で山口へ。昭和4(1929)年、屋敷地の庭の一角に記念の碑が建てられた
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伊藤博文が富海に上陸時、世話になった磯七に残した舶来の手帖(個人蔵(萩博物館保管))の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

伊藤博文が富海に上陸時、世話になった磯七に残した舶来の手帳(個人蔵(萩博物館保管))。『富海村史稿』によれば、明治36(1903)年、博文は徳山(現在の周南市)無量寺で手帳に「再会」し、懐かしんだという
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国の登録有形文化財「清水家住宅主屋」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

国の登録有形文化財「清水家住宅主屋(しゅおく)」。山陽道沿いにあり、宿場町の景観を伝える貴重な町家。清水家は酒造業を営み、大庄屋も務めた。幕末の当主は、伊藤博文らが富海上陸時に会おうとした旧知の志士の弟で、兄に代わって博文らに応接したという。現在の家は、明治11(1878)年の棟札が残る
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  • ※1 富海の飛船は主に2反帆・8石積・2人乗り。2反帆とは、1反の布を2枚つなげて帆にした船のこと。幕末にかけて、次第に大型化していった。本文※1へ戻る
  • ※2 徳山藩の書状などを大坂蔵屋敷へ運んだほか、徳山藩・萩藩の家臣の輸送も行い、萩からの飛脚も運んだ。なお、江戸時代、富海は萩藩の支藩・徳山藩領。本文※2へ戻る
  • ※3 文久3(1863)年、関門海峡での攘夷戦争に参加した後、天皇の大和行幸に際して天誅(てんちゅう)組を組織したが敗れ、長州へ走ったが暗殺された。下関市に忠光卿(きょう)を祀(まつ)った中山神社がある。忠光卿の姉が、明治天皇の母。本文※3へ戻る
  • ※4 伊藤博文と井上馨は前年、山尾庸三(やまお ようぞう)・井上勝(いのうえ まさる)・遠藤謹助(えんどう きんすけ)と共に、萩藩から英国へ密航留学した。本文※4へ戻る
  • ※5 元治元(1864)年に4カ国が下関を砲撃した事件。本文※5へ戻る
  • ※6 『伊藤博文、井上馨二元老直話維新風雲録』によれば、三田尻(みたじり。現在の防府市)の代官の家へ立ち寄り、羽織などを借りたという。本文※6へ戻る
  • ※7 入本屋に贈られた手帳は現存し、萩博物館に寄託されている。なお、2人は藩主へ建言できたが、良い返事を得ることはできなかった。本文※7へ戻る
  • ※8 『富海村史稿』による。その後、晋作は九州へ逃れた。本文※8へ戻る
  • ※9 文字を書くこと。本文※9へ戻る
  • ※10 明治時代、内務大臣などを務めた。晩年、松陰の遺志をくんで、京都の別邸に「尊攘堂(そんじょうどう)」を設立し、志士の書などを集めて納めた。本文※10へ戻る
【参考文献】
アーネスト・サトウ『外交官の見た明治維新(上)』1960
一坂太郎『高杉晋作史料2』2002
出穂稔朗『富海の躍動 幕末期における長州瀬戸内の村』2016
末松謙澄編『伊藤博文、井上馨二元老直話維新風雲録』1900
末松謙澄『防長回天史』1921
中原邦平『伊藤公実録』1909
御園生翁甫編「徳山藩富海飛船根本記」『防府史料第6輯』1962
富海史談会『大坂通いで活躍した飛脚船・富海飛船の歴史』2014
富海村編『富海村史稿』1942
防府市史編纂委員会編『防府市史 通史2近世』1999
御園生翁甫編『防府市史 続』1960
田村哲夫校訂『定本奇兵隊日記』1998など
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