ここから本文

2017年7月28日号 vol.327

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/奇兵隊総督 赤禰武人

写真:武人没後150年の平成28(2016)年、岩国徴古館が武人のことを多くの人に知ってもらおうと発行した『マンガ岩国人物伝Vol.1 幕末を駆けた一陣の風 赤禰武人伝』と『第三代奇兵隊総督 赤禰武人』

第2回 真は誠に偽に似、偽りは以て真に似たり

高杉晋作と同じ吉田松陰の門下生で、奇兵隊第3代総督を務めた赤禰武人。
今号では、非業の死を遂げた後、多くの人々によって復権が願われてきたことを紹介します。

「古地図を片手に柳井にっぽん晴れ街道を歩く」
今年9月から12月まで開催される「幕末維新やまぐちデスティネーションキャンペーン」では、県内各地で「古地図を片手にまちを歩こう」が開催されます。その一環で、柳井市では「古地図を片手に柳井にっぽん晴れ街道を歩く」として、赤禰武人や月性(げっしょう)などのゆかりの地を、地元ボランティアガイドの皆さんの案内で歩きます(要予約)。
阿月コース:10月28日・11月11日(いずれも土曜日)
遠崎コース:10月28日・11月11日(いずれも土曜日)
阿月・遠崎コース:9月16日・10月14日・11月25日・12月16日(いずれも土曜日)

「真は誠に偽に似、偽りは以て真に似たり」(※1)。この謎めいた言葉は、赤禰武人(あかね たけと)が最期に遺(のこ)したものとされています。武人は何を伝えたかったのでしょうか。

武人は柱島(現在の岩国市)の医師の家に生まれ、奇兵隊に入った後、萩藩の士分に引き立てられた人物です。奇兵隊は身分を問わない有志者による組織。その第3代総督となった武人は「隊の全員を士分に」と藩へ訴えますが、かなえられませんでした。元治元(1864)年8月のイギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊による下関砲撃事件では、奇兵隊を率いて戦い、敗北。武人は10月、総督を辞任し、奇兵隊を離れます(※2)。長州はそのころ、朝廷・幕府から征討令(※3)を下され、深刻な事態に陥っていました。藩内では保守派が政権を握り、旧藩政府員を投獄し、奇兵隊など諸隊には解散を命令。武人は奇兵隊に戻り、旧政府員の助命や諸隊の存続を求めて藩政府と交渉していきます。

そのさなかの12月、奇兵隊の創設者だった高杉晋作が、藩政府に対して下関で決起します。やがて奇兵隊も内戦(萩藩政府との戦い)を決意。武人は挙兵に反対していたことから、身の危険を感じ、福岡へ避難し、翌年2月には下関で中岡慎太郎(なかおか しんたろう)(※4)や長府藩士(※5)らといち早く薩長和解について話し合い、3月には西郷隆盛(さいごう たかもり)に会いに大坂へ。その会合の直前で幕府に捕われます。

8カ月後、武人は釈放。長州再征(幕長戦争)が迫る中、その戦争回避へと動いていきます。しかし、長州の方針はすでに「待敵(※6)」に決しており、武人の意見は聞き入られませんでした。やがて柱島に帰郷したところへ藩の捕吏がやってきます。罪状は、釈放後に数十日も隠れていたということなど。つまり幕府方のスパイとされたのです。武人は審問で自分の考えを述べようと捕われますが、審問は行われぬまま、慶応2(1866)年1月、山口で刑死。そのとき獄衣に記されていたのが冒頭の言葉とされ、その言葉からは、真実を知ってほしいという悲痛な思いが伝わってきます。

亡き武人の復権を求め続けた人々

武人は無実だという声は早くからあり、明治維新に功績があって亡くなった人への贈位(※7)が明治時代に始まると、明治44(1911)年、武人への贈位の請願が義弟から出されます。審査機関や帝国議会では、贈位は妥当と判断。しかし、贈位は実現しませんでした(※8)。その後も阿月村(現在の柳井市)や岩国市から請願が出され、昭和18(1943)年1月には、岩国市長が中心となって顕彰会が結成されます。新聞には遺族の喜びと期待が掲載され(※9)、また、地元特産の箸が「赤禰箸」と名付けられて販売されたといいます。ところがやがて、維新功労者への贈位が打ち切られます。

その後も武人を思う人は絶えず、昭和28(1953)年、刑死の地に顕彰碑が建立されます。さらに平成7(1995)年には、下関市吉田清水山(しみずやま)に造られていた奇兵隊士らの顕彰墓地(※10)に、武人の墓が新たに造られます(※11)。清水山は、晋作が眠る地。晋作は武人との間に確執があったとされますが、病死する前、医師に「武人の心事(しんじ)を洞察することができず、その生命を保たせられなかったことは遺憾だ」と語ったとも伝わります(※12)。晋作や奇兵隊士らと同じ地に造られた武人の墓。それは、ようやく武人の復権が成ったといえる、没後130年を前にした記念すべき出来事でした。


郷校「克己堂」の門の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

武人が学んだ萩藩重臣・浦靭負(うら ゆきえ)が開設した郷校「克己堂(こっきどう)」の門(柳井市阿月)。また、阿月には、武人の屋敷跡の地に碑が建てられているほか、武人の墓もある
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

赤禰武人の墓への案内板の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

平成28(2016)年、岩国市教育委員会によって、ふるさと柱島に建てられた墓への案内板。明治35(1902)年、阿月にある武人の墓から分骨され、柱島にも墓所が建立された
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

東行庵の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

東行庵(下関市吉田)。晋作は慶応3(1867)年4月に病死し、奇兵隊本陣が置かれた清水山に埋葬された。東行庵は明治時代、晋作の菩提(ぼだい)を弔う梅処尼(ばいしょに)のため清水山の麓に創建。奇兵隊および諸隊士顕彰墓地は、後の庵主によって清水山に造られた
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。


  • ※1 「真は偽りに似、偽りは真に似たり」とも伝わる本文※1へ戻る
  • ※2 持病の静養のため。本文※2へ戻る
  • ※3 第1次長州征討。萩藩の三家老の自刃などと引き換えに、征長軍は撤兵。開戦には至らなかった。本文※3へ戻る
  • ※4 高知藩(現在の高知県)出身の志士。坂本龍馬(さかもと りょうま)と共に刺客に暗殺された。本文※4へ戻る
  • ※5 時田光介(ときた みつすけ)。長府藩の重臣。井上少輔(いのうえ しょうすけ)、時田少輔の名でも知られる。武人は刑死の前、「時田少輔に聞いてほしい」と言ったと伝わる。本文※5へ戻る
  • ※6 同年閏(うるう)5月、藩の正当性を示すため、攻められた場合にやむを得ず抗戦(防戦)するという方針を定めた。本文※6へ戻る
  • ※7 生前の功労をたたえて、死後に位階(栄典)を贈ること。本文※7へ戻る
  • ※8 政府高官となっていた奇兵隊出身者などから、武人は下関砲撃事件の際、ほとんど命令を出さず逃走した、といった反対意見が出たことによる。ただし、武人の奮戦は『白石正一郎日記』で確認できる。本文※8へ戻る
  • ※9 昭和18(1943)年1月の『毎日新聞』。本文※9へ戻る
  • ※10 東行庵が昭和46(1971)年に高杉晋作百五年祭の記念事業として建設した「奇兵隊および諸隊士顕彰墓地」。本文※10へ戻る
  • ※11 武人の墓は柳井市阿月や、ふるさとの岩国市柱島にもある。本文※11へ戻る
  • ※12 「史談速記録 第貳拾八輯抜萃 長州藩報効志士赤禰武人事歴捕遺」『史料 赤禰武人』による。本文※12へ戻る
【参考文献】
一坂太郎編『史料 赤禰武人』1999
一坂太郎『長州奇兵隊』2002
一坂太郎『奇兵隊士列伝(二)』2013
岩国徴古館『マンガ岩国人物伝Vol.1 幕末を駆けた一陣の風 赤禰武人伝』2017
海原徹『月性 ‐人間到る処青山有り‐』2005
月性顕彰会編『維新の先覚 月性の研究』1979
松岡智訓『第三代奇兵隊総督 赤禰武人』2016
村上磐太郎『赤根武人の冤罪』2007
山口県教育会編『吉田松陰全集』10 1974
山口県編『山口県史 史料編 幕末維新』3 2014など
おもしろ山口学バックナンバー
おすすめリンク

ページの先頭へ戻る



ページの先頭へ