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2017年6月23日号 vol.326

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/奇兵隊総督 赤禰武人

写真:(左)「赤禰武人肖像画」(おおすみグループ蔵)。(右)赤禰武人のふるさと岩国市柱島。定期船で岩国港から約1時間の所にある

第1回 眉目清秀ノ偉丈夫ナリ

高杉晋作によって創設された奇兵隊。晋作と同じ吉田松陰の門下生で、奇兵隊第3代総督を務めながら、光を当てられてこなかった赤禰武人。その人物像を2回にわたり紹介します。

「古地図を片手に柳井にっぽん晴れ街道を歩く」
今年9月から12月まで開催される「幕末維新やまぐちデスティネーションキャンペーン」では、県内各地で「古地図を片手にまちを歩こう」が開催されます。その一環で、柳井市では「古地図を片手に柳井にっぽん晴れ街道を歩く」として、赤禰武人や月性などのゆかりの地を、地元ボランティアガイドの皆さんの案内で歩きます(要予約)。
阿月コース:10月28日・11月11日(いずれも土曜日)
遠崎コース:10月28日・11月11日(いずれも土曜日)
阿月・遠崎コース:9月16日・10月14日・11月25日・12月16日(いずれも土曜日)

幕末の志士の中には、高杉晋作(たかすぎ しんさく)のように有名な人物がいる一方で、光の当たらない人物もおり、その中の1人に赤禰武人(あかね たけと)(※1)がいます。武人は、吉田松陰(よしだ しょういん)に影響を与えた僧・月性(げっしょう)(※2)や、松陰、梅田雲浜(うめだ うんぴん)(※3)に学び、奇兵隊の総督を務めた華々しい経歴を持ちながら、数え年29歳にして非業の死を遂げた人物です。その容貌については、すっきりとした顔立ちが印象的な肖像画があります。しかしそれは、容貌が似ていたという実弟の写真を元に、近年描かれたもの。武人の晩年に会った人物は、「白皙(はくせき)長身、眉目清秀(びもくせいしゅう)ノ偉丈夫(いじょうふ)ナリ」と書き残しており(※4)、実際に色白で背が高い、美青年だったようです。

武人は天保9(1838)年、柱島(現在の岩国市)の医者・松崎家の長男として生まれました。嘉永年間、10代半ばで島を飛び出し、遠崎(とおざき・現在の柳井市)妙円寺の僧・月性が開いた私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう)(※5)」の塾生となります。

師の月性は、僧でありながら髪はぼうぼう、衣は破れ放題で、詩作を始めると没頭し、酔うと大声で詩吟を始め、剣を取って乱舞するという型破りな人物。西本願寺門主から呼ばれて京都に長く滞在した時期があり(※6)、後に、連夜の飲み会による借金の一部を、当時京都で学んでいた武人が奔走して返済したこともあります。

そんな月性のまな弟子だった武人は嘉永6(1853)年、月性の紹介で、阿月(あつき。現在の柳井市)領主で萩藩重臣・浦靭負(うら ゆきえ)(※7)が創設した郷校「克己堂(こっきどう)(※8)」に入り、さらに松陰の松下村塾でも学びます。

月性・雲浜・松陰。3人の師の死を経て、仲間たちと共に志士へ

やがて武人に浦靭負の家臣・赤禰家の養子となる話が持ち上がります。松陰は安政4(1857)年、養子になることに反対する手紙を月性に送っており、それは武人に期待するが故に、身分にこだわらず、「天下の人材」となってほしいという思いからでした。しかし、武人は赤禰家の養子となり、武士の身分を手に入れます。

その後、京都で雲浜に学んでいた安政5(1858)年、武人は師の月性を突然の病で失います。翌年には安政の大獄(※9)により、雲浜、さらに松陰も失います。松陰の門下生らは松陰の遺志を継ぎ、尊王攘夷派の志士として過激な行動に走り、武人は高杉晋作や久坂玄瑞(くさか げんずい)が中心となって結成した「御楯組(みたてぐみ)」に参加。文久3(1863)年5月には、玄瑞らによる関門海峡での攘夷決行に加わります。さらに6月、晋作が奇兵隊を結成すると、いち早く入隊。7月には、浦氏の家臣から萩藩の士分へと取り立てられます。松陰から反対されても、武士の身分を手に入れた武人にとって、それは大きな喜びだったことでしょう。そして、8月18日の政変により萩藩が京都から追放された後の10月、武人は奇兵隊第3代総督の座に就きます。

ところが、長州を取り巻く状況が悪化する中、武人が進む道は険しさを増していきます。武人はどう行動し、非業の死を迎えることになったのか、次回、没後の顕彰運動も含めて紹介します。


武人の実弟・松村剛哉の写真(おおすみグループ蔵)/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

武人に容貌がよく似ていたという実弟・松村剛哉(まつむら こうさい)の写真(おおすみグループ蔵)。武人の肖像画は、この写真を元に制作された
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清狂草堂(時習館)の写真((公財)僧月性顕彰会提供)/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

武人に大きな影響を与えた月性の私塾「清狂草堂(時習館)」((公財)僧月性顕彰会提供)。柳井市遠崎妙円寺境内にある。明治23(1890)年、月性の三十三回忌に門弟らによって再建されたもの
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武人の名が記されている月性の香典帳((公財)僧月性顕彰会蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

武人の名(右から2人目)が記されている月性の香典帳((公財)僧月性顕彰会蔵)。なお、妙円寺境内にある月性展示館には月性の遺品などが展示されており、月性の人となりや交友関係を知ることができる
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  • ※1 「赤根」として記された史料もあるが、墓所には「赤禰」と刻まれている。本文※1へ戻る
  • ※2 海防の重要性を説いて回り、「海防僧」とも呼ばれた。武士も農工商の人々も男女も海防に参加すべきという当時画期的な考えを持ち、後の奇兵隊結成に影響を与えたと考えられる。本文※2へ戻る
  • ※3 若狭小浜(わかさおばま)藩士、儒者。藩を追放された後、尊王攘夷を唱えて諸国の志士と活動。武人は安政4(1857)年から京都で雲浜に学ぶ。翌年、安政の大獄により雲浜が捕らえられた際、共に捕らえられたが釈放された。本文※3へ戻る
  • ※4 村上磐太郎(むらかみ いわたろう)『赤根武人の冤罪(えんざい)』による。明治・大正時代の歴史家で、毛利家や文部省で維新史を編修した、中原邦平(なかはら くにへい)の言葉。本文※4へ戻る
  • ※5 別名「時習館」。本文※5へ戻る
  • ※6 西本願寺が賓客のもてなしなどに用いた、京都東山の別邸「翠紅館(すいこうかん)」に滞在。本文※6へ戻る
  • ※7 萩藩主・毛利斉元(もうり なりもと)・敬親(たかちか)に仕え、家老として当役・当職など要職を歴任。藩財政立て直しや軍制改革などに尽力。自らの家臣への文武奨励にも力を入れた。本文※7へ戻る
  • ※8 天保13(1842)年創設。家臣だけでなく、後には、さらに広い階層に開放された。本文※8へ戻る
  • ※9 安政5(1858)年、大老・井伊直弼(いい なおすけ)が尊王攘夷派の人々に行った弾圧。本文※9へ戻る
【参考文献】
一坂太郎編『史料 赤禰武人』1999
一坂太郎『奇兵隊士列伝(二)』2013
海原徹『月性 ‐人間到る処青山有り‐』2005
月性顕彰会編『維新の先覚 月性の研究』1979
角井菊雄『悲運の第三代奇兵隊総管 赤禰武人』2000
松岡智訓『第三代奇兵隊総督 赤禰武人』2016
村上磐太郎『赤根武人の冤罪』2007
山口県教育会編『吉田松陰全集』10 1974
山口県編『山口県史 史料編 幕末維新』3 2014など
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