ここから本文

2017年4月28日号 vol.324

2018年は明治改元から150年

おもしろ山口学/幕末長州船漂流記 ‐異国船に乗った藤曲浦「浮木丸」の乗組員たち‐

写真:宇部市上条の「西宮八幡宮」には、浮木丸の船頭の父・槇野与七(まきの よしち)が生前、奉納したといわれる一対の狛犬(こまいぬ)がある

幕末長州船漂流記 ‐異国船に乗った藤曲浦「浮木丸」の乗組員たち‐

長州の廻船の乗組員が無人島に漂着した後、異国船に助けられ、黒船来航の年、帰郷を果たします。公には事実が伏せられた、数奇な漂流記を紹介します。

山口県文書館「アーカイブズウイーク」
文書記録の重要性などをPRする目的で行われるイベントで、今年は「防長と海」をテーマに開催します。所蔵文書の展示や漂流記についての歴史小話のほか、「村上水軍」についての歴史探究講座、書庫見学ツアーなどが行われます。
期間:6月1日(木曜日)から11日(日曜日)まで
場所:山口県文書館、山口県立図書館レクチャールームなど

江戸時代、三方を海に開かれた長州の浦々では、廻船(かいせん)(※1)の活動が盛んでした。天気予報などない時代、冬の海で遭難する船は少なくなく、幕末、藤曲浦(ふじまがりうら。現在の宇部市)の大型廻船の乗組員も遭難・漂流の末、異国船に助けられて帰国、帰郷を果たすという数奇な体験をしています。

その始まりは黒船来航の3年前、嘉永3(1850)年のことです。船頭・棟助(むねすけ)が所有する「浮木丸」は、陸奥国(むつのくに)(※2)から江戸への年貢米の運送を請け負い、10月江戸を出帆しました。乗組員は棟助とその父、弟2人のほか、長州出身の3人、出雲(いずも)・能登(のと)・讃岐(さぬき)(※3)・陸奥国出身の計11人。やがて浮木丸は犬吠埼(いぬぼうさき)(※4)の沖で嵐に襲われます。11人は髪を切って懸命に神仏に祈ります(※5)が、その後も暴風は続き、舵(かじ)が折れ、船内には海水が浸入。暴風による転覆を避けるため帆柱を切り倒し、浮木丸は完全な漂流船となります。おみくじを作って方角を占い、船内の水をくみ出しながら漂流し続けますが、11月の末の荒天で船が沈み始め、11人は船尾にしがみつき、ようやく見えてきた小島へ、最終的には泳いでたどり着きます(※6)

後に彼らは、長崎奉行所の取り調べなどで、漂着したのは、家が2軒あり、3人の僧と髪を三つ編みにした4人が住む「唐(※7)」の島で、約1年後、唐の船に助けられた、と供述しています。現在、山口県文書館や山口市立阿知須図書館に、彼らが語った江戸時代の記録があり、それらの内容も唐の島へ漂着、とあります。ところが、事実は、その供述とは大きく異なるものだったのです(※8)

なぜ偽りを? 異国船に助けられた乗組員たち

11人が漂着した島は、実際には、硫黄(いおう)が噴き出し、鳥だけが棲息(せいそく)する、樹木もない無人島でした。彼らは鳥の肉や卵を食べて命をつなぎ、約1年後、沖を通りがかったブレーメン(現在のドイツの都市)の商船に救助され(※9)、アヘン戦争でイギリス領となっていた香港へ運ばれます。香港からはイギリス軍艦で寧波(にんぽう)へ。そして中国の役人に引き渡され、中国の船が長崎へ渡る港町へ運ばれます。

しかし、その頃中国で「太平天国(※10)」の乱が起き、11人はその港町で約1年を過ごすことになります。その間に、棟助父子は病気となり、中国の医師の手厚い治療のかいなく亡くなりました。嘉永5(1852)年12月、9人は中国の船で長崎に到着します。そこで彼らを待っていたのは長崎奉行所での取り調べ。幕府は海外渡航や帰国、海外の知識を持つことを禁じており、漂流者に対しては、犯罪者として、西洋人との接触の有無などを取り調べるのが常でした。そのため9人は無事帰郷できるよう、偽りを述べたのでした。その結果、9人は奉行所から疑わしいことはないと判断され、各藩の役人が引き取りに来るまでの約7カ月から10カ月を牢(ろう)屋で過ごします。そのさなかの嘉永6(1853)年6月には、浦賀に黒船が来航。翌月には長崎にロシア艦隊のプチャーチンが来航し、長崎奉行所は対応に追われます。

ブレーメンやイギリス、中国の人々から手厚い世話を受けた浮木丸の乗組員たち。ある乗組員は香港の繁栄に驚き、また、イギリス軍の軍事教練も見学し、「ここは唐土(中国)の地だけれども、西洋国に攻め取られたそうです」と、出身藩での取り調べの際に語っています(※11)。浮木丸の乗組員たちの記録は、列強の脅威が押し寄せつつあった、幕末の日本や国際状況の一端を教えてくれます。


「房州沖遭難より清国へ漂流の記」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「房州沖遭難より清国へ漂流の記」(山口県文書館蔵)。事実と異なり、有人島に漂着した、という内容が記されている
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「須佐宝泉寺・黄帝社船絵馬」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「須佐宝泉寺・黄帝社船絵馬」(国指定重要有形民俗文化財。萩博物館保管)。萩市須佐の高山にある「宝泉寺」とその鎮守社「黄帝社」は全国各地の船乗りに信仰され、多くの船絵馬が奉納されてきた。この船絵馬は出雲国の船の奉納。浮木丸は800石積23反帆の船で、この船の規模に近い
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「須佐宝泉寺・黄帝社船絵馬」の一つ、「難船絵馬」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「須佐宝泉寺・黄帝社船絵馬」(国指定重要有形民俗文化財。萩博物館保管)。江崎(萩市)の船が難を逃れた後に奉納した「難船絵馬」。船乗りが懸命に拝む左上の空に、神仏の出現を表す御幣(ごへい)が描かれている。帆は下ろされ、嵐を切り抜けようとしている
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。


  • ※1 商品を港から港へ海上輸送する船。本文※1へ戻る
  • ※2 現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部。本文※2へ戻る
  • ※3 出雲国は現在の島根県東部。能登国は現在の石川県北部。讃岐国は現在の香川県。本文※3へ戻る
  • ※4 現在の千葉県銚子市の岬。本文※4へ戻る
  • ※5 船が嵐に遭って危険な状態になると、船乗りはちょんまげの元結(もとゆい)から髪を切って神仏に祈り、危険を逃れた後、その髪を絵馬に付けて社寺に奉納した。本文※5へ戻る
  • ※6 小林郁『嘉永無人島漂流記』による(イギリス人が中国で発行していた新聞、1852年1月31日付「ノース・チャイナ・ヘラルド」紙に、浮木丸の乗組員が漂着したのは「琉球近くの岩礁」として掲載)。本文※6へ戻る
  • ※7 中国のこと。実際には、当時の王朝は清(しん)。本文※7へ戻る
  • ※8 『宇部郷土史話』によれば、乗組員のうち、棟助の弟・升五郎(ますごろう)は帰郷後、親しい人には無人島に漂着していたことを明かしていた。他にも出雲・讃岐・陸奥国出身の乗組員は帰郷後、長崎奉行所での供述とは異なることを話した記録が残る。本文※8へ戻る
  • ※9 『嘉永無人島漂流記』による。1852年1月31日付「ノース・チャイナ・ヘラルド」紙の記事で判明。本文※9へ戻る
  • ※10 中国で清の末期、江西(こうせい)省で樹立された反清「革命」国家。本文※10へ戻る
  • ※11 『嘉永無人島漂流記』による。能登国出身の理之助(りのすけ)が藩の取り調べの際、話している。本文※11へ戻る
【参考文献】
石井謙治・安達裕之『船の科学館叢書4 船絵馬入門』2004
宇部市『宇部市史 通史篇』上巻 1992
菊池孝吉『権市関係村控一括』1969
小林郁『嘉永無人島漂流記』1998
小林郁「藤曲浦棟助船浮木丸の城米船としての活動、及び漂流の顛末について」『宇部地方史研究』26 1998
近藤富蔵『八丈実記』2 1969
中野真琴「浮木丸漂流の記」『あじす史話』1969
中野真琴「住福丸(藤曲)漂流始末記」『宇部岬海岸で捕えられた海賊』1991
三好茂吉「浮木丸漂流之記」『宇部市東岐波郷土誌研究会誌 喜和』2 1956
山下恒夫再編『石井研堂これくしょん江戸漂流記総集』第4巻 1992
山田亀之介『宇部郷土史話』1955など

ページの先頭へ戻る



ページの先頭へ