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2017年3月24日号 vol.323
おもしろ山口学/萩藩校「明倫館」

写真:「新明倫館全図」(部分)『八江萩名所図画』(萩博物館蔵)より。吉田松陰(よしだ しょういん)も兵学師範として明倫館で教えた。図の一番下のほぼ中央に南門が描かれている

萩藩校「明倫館」

かつて萩藩校「明倫館」があった地に3月、萩の新たな観光起点「萩・明倫学舎」がオープンしました。 明倫館の歴史や現存する貴重な遺構を紹介します。

萩・明倫学舎
藩校明倫館についての展示室をはじめ、幕末維新期の軍事・天文・医学などの実物資料を展示する幕末ミュージアム、世界遺産ビジターセンター、萩観光に出発するためのあらゆる情報を入手できる観光インフォメーションセンター、カフェ・レストラン・お土産ショップ、ジオパークビジターセンターなどがある。
場所:萩・明倫学舎(旧明倫小学校)

旧明倫小学校の木造校舎を活用して誕生した「萩・明倫学舎」。そこはかつて萩藩校「明倫館」があった地でした。しかし、そこに明倫館が築かれたのは幕末のこと。当初は萩城三の丸の追廻(おいまわ)し筋(※1)に築かれ、その歴史は江戸時代中期にさかのぼります。

明倫館開校の30年ほど前、江戸では、幕府将軍・徳川綱吉(とくがわ つなよし)によって、朱子学(※2)の学者・林家の家塾(※3)にあった孔子廟(びょう)(※4)が神田台(現在の文京区湯島)へ移転・新築(※5)。そこで綱吉が自ら講義を行うなど、朱子学を一層重んじる気風が生じていました。

そうした幕府の動きを反映するように、萩藩では享保4(1719)年、藩校明倫館が開校します。諸藩の藩校が激増するのは1700年代後半。明倫館は早い時期の開校といえます。開校させたのは、支藩の長府藩(※6)から萩藩5代藩主となった毛利吉元(もうり よしもと)。家臣の間に文武をおろそかにする傾向や、本藩と支藩の関係に不和も生じたことなどから(※7)、林家に朱子学を学んだ吉元が、家臣に文武を奨励し、綱紀をただして幕藩体制を維持する目的などで開校したものでした。

150年の時を超え、さまざまな形で守られてきた藩校の遺構

幕末の嘉永2(1849)年、13代藩主・毛利敬親(たかちか)の時、明倫館は移転します。主導したのは、萩藩の藩政改革の中心人物・村田清風(むらた せいふう)(※8)。中国(清)のアヘン戦争を機に、列強の脅威に対処できる人材の育成が急務と考え、藩政改革の一つとして行ったのが、旧明倫館の約16倍の敷地、はす田などが広がっていた江向(えむかい)への明倫館の移転・拡充でした。それまで離れた地にあった剣術・槍(そう)術の稽古場、習練場、医学稽古場(※9)なども統合し、新明倫館は総合的な藩校として再出発。旧明倫館にもあった孔子をまつる「聖廟」が中央に配されました。

明治維新後、明倫館は(旧制)萩中学や明倫小学校の学校用地として使用され、その過程で藩校由来の多くの建物は取り壊されます。しかし、かつて遊泳術・水中騎馬の練習が行われた「水練池」や、「剣槍稽古場」は往時の位置のまま残されました。

また、明治時代に、市内の別の地に移築されながら近年再び戻ってきた建造物もあります。例えば、藩主が聖廟を拝する釈菜(せきさい)(※10)や、公式行事の時以外は閉ざされていた正門「南門(なんもん)」は、本願寺萩別院(※11)に移築され、平成16(2004)年度に旧位置に復元。南門と聖廟の間にあった「観徳門」も同別院に移されましたが、再び敷地内へ。さらには、移築された地で現存するものもあり、観徳門から聖廟へと続いた「万歳橋(ばんせいばし)」は、萩城跡の志都岐山(しづきやま)神社に。藩校の精神的支柱だった聖廟は、海潮寺の本堂となり、鬼瓦には今も聖廟の名を仰ぎ見ることができます。

明治改元から来年で150年。さまざまな形で守られてきた、それらの遺構からは、藩校明倫館への人々の誇りが伝わってきます。


萩・明倫学舎敷地内にある明倫館「南門」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

萩・明倫学舎敷地内にある明倫館「南門」。廃校後、本願寺萩別院の表門として移築されたが、再び旧位置に移された
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萩・明倫学舎敷地内にある明倫館「観徳門」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

萩・明倫学舎敷地内にある明倫館「観徳門」。廃校後、本願寺萩別院の客殿門として移築されたが、昭和57(1982)年に有備館の南へ
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萩・明倫学舎敷地内にある「聖賢堂」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

萩・明倫学舎敷地内にある「聖賢堂」。廃校後、観徳門の左右にあった東塾・西塾が1棟となって市内の阿呼社(あこしゃ)に移築され、大正7(1918)年に明倫館跡へ
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萩城跡の志都岐山神社にある明倫館の「万歳橋」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

萩城跡の志都岐山神社にある明倫館の「万歳橋」。聖廟前には角形の泮水(はんすい。一般的には半円形の水・池)が巡らされ、この石橋が掛けられていた
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海潮寺の本堂となっている明倫館「聖廟」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

海潮寺の本堂となっている明倫館「聖廟」。かつて聖廟の西には、徳山藩生まれの元徳が敬親の養嗣子として来る際の居館として造られた明倫館御殿があった
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萩・明倫学舎敷地内にある「剣槍稽古場」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

萩・明倫学舎敷地内にある「剣槍稽古場」。坂本龍馬(さかもと りょうま)も試合をしたという。江戸の藩邸にあった文武講習所の名にちなみ、大正時代に「有備館」と命名
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  • ※1 現在の萩市堀内1区の2。旧明倫館の地には「旧明倫館址」の石碑が立つ。本文※1へ戻る
  • ※2 中国の宋の時代に始まり、朱子によって大成した儒教の学説。父子・君臣などの秩序を重視した。本文※2へ戻る
  • ※3 学者などが自宅で開設した教育施設で、特に幕府や諸藩に仕官していた儒者が、幕臣・藩士の子弟教育のために設けたもの。本文※3へ戻る
  • ※4 儒教の祖である孔子をまつる建造物。本文※4へ戻る
  • ※5 寛政9(1797)年、江戸幕府直轄の教育機関「昌平坂学問所」となる。現在の湯島聖堂。本文※5へ戻る
  • ※6 現在の下関市の多くを領地とした藩。萩藩の支藩の一つ。本文※6へ戻る
  • ※7 萩藩と支藩の徳山藩との間で、境界にあった松の木を巡って殺傷事件が発生。対立は激化し、正徳6(1716)年4月、徳山藩は幕府によって改易となるが、3年後再興を許された。本文※7へ戻る
  • ※8 藩財政を改善したほか、洋式砲術の導入などの対外防備も強化。松陰を高く評価し、松陰からも慕われた。本文※8へ戻る
  • ※9 医学稽古場(済生堂)は嘉永3(1850)年、以前の地「南苑」へ移され、旧医学所と合併し、好生堂と称した。本文※9へ戻る
  • ※10 孔子をまつる祭礼。本文※10へ戻る
  • ※11 現在は本願寺山口別院萩分院。本文※11へ戻る
【参考文献】
牛見真博『長州藩教育の源流 徂徠学者・山県周南と藩校明倫館』2013
小川國治『藩校明倫館』2015
小川國治・小川亜弥子『山口県の教育史』2000
徳山市『徳山市史』上 1984
萩市『萩市史』第3巻1987
萩市『史跡 旧萩藩校明倫館(南門)保存修理工事報告書』2006
萩市『史跡明倫館水練池及び有備館附明倫館碑保存修理工事報告書』1970
前田勉「長州藩明倫館の藩校教育の展開」『徳川社会と日本の近代化』2015
村田吉廣『藩校 人を育てる伝統と風土』2011
国史大辞典編集委員会『国史大辞典』Web版 など

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