ここから本文

2017年2月24日号 vol.322
おもしろ山口学/幕末、京都で大流行した「長州おはぎ」と尼崎の「残念さん」

写真:(左)萩藩の藩主・毛利家の紋が入った纏(まとい)の図。「御紋御旗御指物合印図」より(山口県文書館蔵)。(右)「長州おはぎ」の再現イメージ(写真提供:NPO法人萩元気食の会)

幕末、京都で大流行した「長州おはぎ」と尼崎の「残念さん」

幕末、京都で「長州おはぎ」が爆発的に売れ、尼崎では長州藩士の墓を「残念さん」と呼んで、大勢の人がお参りに押し掛ける不思議な風潮が起きました。その背景を紹介します。

幕末、京都で「長州おはぎ」と名付けられた餅菓子が爆発的に売れるブームが起きました。それは盆におはぎを三つ入れ、上に箸を置き、36文で売り出したもの。おはぎ自体は普通のおはぎながら、おはぎは萩藩(長州藩)の城下町「萩」の意味を隠し、三つのおはぎと箸は藩主毛利家の家紋「一文字三星(いちもんじみつぼし)」、36文は藩の公称石高36万石の意味を隠した判じ物(※1)になっていました。当時の記録に「長州様のおはぎならば、いただきたき旨、ことのほか大流行」とあるように、その大流行は明らかに長州を意識した上でのこと。なぜそのようなことが起きたのでしょうか。

長州おはぎの大流行は、長州が京都での「禁門の変(※2)」で敗退し、翌月には英・仏・蘭・米の連合艦隊による下関砲撃事件(※3)で大敗し、さらには朝廷の命を受けた幕府から長州征討を布告され、一層の苦境に陥った元治元(1864)年9月のことです。

この京都での大流行についての伝聞を、石見国(現在の島根県西部)の医師が日記に書いています(※4)。「『値段を負けて(安くして)くれ』と言えば『いや負けぬ』と言うのを楽しみに諸人が競って買う」。つまり、京都の人々は長州おはぎの値の駆け引きに見せかけて、「長州は負けない」「一銭(一戦)も負けない」ということを、わざと言わせようとしたといい、その陰には長州征討が迫る長州をひそかに応援する風潮があったことがうかがえます。

長州贔屓と、幕府による「開港」

こうした「長州贔屓(びいき)」は他の地でも起き、慶応元(1865)年2月ごろ、尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で「残念さん」という流行神(はやりがみ)(※5)への信仰が爆発的に起きます。残念さんとは、前年の禁門の変で京都から敗走する途中、尼崎で捕らわれて非業(ひごう)の死を遂げた長州藩士・山本文之助(やまもと ぶんのすけ)のこと。取り調べの際、厠(かわや)へ行き、そこで無念の気持ちを残して自殺したことから「残念さん」といわれるようになり、その墓に祈願すれば、どんな大病も全快するという俗信が広まり、特に大坂から大勢の町人が押し掛けるようになったのです(※6)

5月になって残念さんへの参詣が禁止されると、ブームは大坂へ飛び火します。大坂には長州の蔵屋敷がありましたが、禁門の変の後、幕府によって没収・解体。そこに残った柳の木の葉を煎じて飲めば病気が治るという噂(うわさ)が広がり、おびただしい人々が、その柳の木「無念柳」へ参詣に押し掛け、餅屋や線香屋、花屋も出るほど賑わうようになったのです(※7)

同じころ、京・大坂・播磨(はりま)国(現在の兵庫県南部)で長州の勝利を祈る「長州踊り(※8)」も流行します。こうした長州贔屓の根底には、安政5(1858)年、幕府が押し切られる形でアメリカなど5カ国と通商条約を結んだことに始まる、人々の困窮がありました。貿易が始まると、諸物価が急激に高騰。生活に困窮した人々は、その原因は貿易を始めた幕府にあると考え、「攘夷(じょうい)」を掲げていた長州贔屓へと傾き、万病平癒(へいゆ)という現世利益を求める爆発的なブームにもつながったと考えられます。

幕末から明治維新へ。時代を動かしたのは志士たちだけではなく、生活に困窮した人々の激しい不満がうねりとなって、時代の大きな変化を後押しすることになったのでした。

尼崎市にある「残念さんの墓」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

尼崎市にある「残念さんの墓」。「長藩 山本文之助鑑光(かねみつ)墓」とある。現在の墓は萩藩と取引のあった尼崎の商人・油屋喜平(あぶらや きへい)が建てたものと伝わる。現在も受験の祈願などでお参りに来る人が多いという
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

長州おはぎの写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

長州おはぎは平成24(2012)年に萩高校で歴史教育の一環として生徒たちが再現し、模擬店で販売。それを機に萩市民や萩市が復活に取り組み、現在は毎年、田町商店街の10月の「結(ゆい)まつり」で販売。なお、写真は昨年、萩市内の中学校での公開講座で提供されたもの。(写真提供:NPO法人萩元気食の会)
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

萩藩の藩主・毛利家の紋「一文字三星」が入った旗の図 (山口県文書館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

萩藩の藩主・毛利家の紋「一文字三星」が入った旗の図。「御紋御旗御指物合印図」より(山口県文書館蔵)。
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。


  • ※1 ある意味を文字や絵などに隠し、人にそれを当てさせるもの。本文※1へ戻る
  • ※2 「8月18日の政変」で京都を追われた萩藩が再起を図り、兵を率いて上京し、会津藩、鹿児島藩の兵と京都御所蛤(はまぐり)御門などで起こした元治元(1864)年7月の戦い。本文※2へ戻る
  • ※3 連合艦隊来襲の目的は、長州が前年に攘夷戦を行った関門海峡の航行安全を確保するためや、日本に攘夷の無謀さを知らしめ、幕府の鎖港方針を撤回させるためと考えられている。本文※3へ戻る
  • ※4 石見国邑智(おおち)郡の医師・松島益軒(まつしま えきけん)の日記『松氏春秋』。本文※4へ戻る
  • ※5 ある地域で一時的に爆発的な人気を呼ぶ神仏の信仰。本文※5へ戻る
  • ※6 大坂町奉行により、同年5月17日限りで参詣は禁止されたが、明治以降も信仰は続き、歯痛に最も効き目があるといわれ、昭和以降は入学試験の神とされ、現在も受験生の参詣が多いという。本文※6へ戻る
  • ※7 柳の木には、尼崎の残念さんが飛び移ったとも、蔵屋敷の稲荷が飛び移ったともいう。大坂町奉行によって同年5月29日に柳の木は伐採。しかし、根をほじる者が出たため、根も掘って捨てられた。本文※7へ戻る
  • ※8  慶応元(1865)年5月、幕長戦争での長州の勝利を祈って熱狂的に流行。踊りのはやしでは「長州勝たら太平ぢや」と歌われた。本文※8へ戻る
【参考文献】
石永雅子「残念さんと隊中さま-『物語』に見る文化コード-」『山口県史研究』18号 2010
石永雅子「長州おはぎ-山口県立萩高等学校における歴史教育と地域共生教育の実践-」『山口県地方史研究』109号 2013
井上勝生「幕末における民衆支配思想の特質-日本的マキアヴェリズムについて-」『歴史学研究』502号 1982
松島益軒「松氏春秋」『大和村誌』上巻 1981
佐々木隆爾編『争点日本の歴史』第6巻 1991
芝原拓自『日本の歴史23 開国』1975
南和夫『幕末江戸の文化 浮世絵と風刺画』1998
三宅紹宣「西国民衆の長州贔屓」『動乱の長州と人物群像』2005
三宅紹宣『幕末・維新期長州藩の政治構造』1993
「吉介翁自筆見聞雑記(抄)」『山口県史 史料編 幕末維新』4 2010 など
おもしろ山口学バックナンバー

ページの先頭へ戻る



ページの先頭へ