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2017年1月27日号 vol.321
おもしろ山口学/幻となった6基の「毛利家銅像」秘話 ‐山口市亀山公園‐

写真:(左)かつて亀山公園山頂広場にあった長沼守敬作の毛利敬親像。「山口名所絵はがき 亀山園毛利忠正公銅像」(山口県文書館蔵)より。(右)現在の「毛利敬親公之像」

幻となった6基の「毛利家銅像」秘話 ‐山口市亀山公園‐

山口市の亀山公園は、かつて毛利家銅像が建ち並ぶ、明治維新を記念する一大銅像公園でした。今は幻となった6基の銅像秘話を紹介します。

山口市街を見渡せる亀山公園山頂広場に一基の銅像が立っています。像は幕末の萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)。しかし、かつてそこには、現在と異なる敬親像(※1)や4人の支藩主(※2)、敬親の養嗣子(ようしし)・元徳(もとのり)の、計6基の毛利家銅像が建ち並んでいました。往時の銅像を制作したのは、明治時代、イタリアで彫刻を本格的に学んだ初めての日本人で、「日本の洋風塑像(そぞう)(※3)の創始者」といわれる長沼守敬(ながぬま もりよし)(※4)。一大銅像公園はなぜ誕生し、幻となったのでしょうか。

これらの銅像制作について、明治24(1891)年、伊藤博文(いとう ひろぶみ)(※5)が総裁となって募金を呼び掛けた、次のような趣意書が残っています。「毛利家の恩を数百年来受けてきた防長(現在の山口県)の人々に告ぐ。敬親(忠正)公が幾多の困難を乗り切り、明治維新を成し遂げられたのは本藩・支藩が心を同じくした結果で、そのことを忘れないよう、敬親公の銅像を建設し、四隅に各支藩の旧藩主像を建てたい」(※6)

このとき存命中だった元徳の像は予定になく、やがて敬親と4支藩主の銅像5基の制作が東京の砲兵工廠(ほうへいこうしょう)に設けられた作業場で始まります。しかし、この前代未聞の事業は、実は完成に至るまで困難の連続だったことが、塑像を制作した長沼守敬の談話(※7)などを通じて見えてきます。

戦争に「出陣」した毛利家銅像と、幻の銅像公園の今

守敬がまず悩んだのは、5人が皆、故人だったことでした。守敬によれば、5人の中で写真があったのは、敬親と岩国・長府の支藩主のみ。特に敬親と岩国の支藩主の写真は、「至極怪しげ」で、彼らが幕末、三田尻(みたじり。現在の防府市)でイギリス軍艦を迎えた際に、イギリス人が撮ったらしいというものでした。その「怪しげ」な写真は現存し、確かに本人たちを写したものですが、残念ながら不鮮明(※8)。頭を抱えた守敬が浮かびます。

また、5人の遺族なども次々やってきて、守敬は何かと注文を付けられます。塑像を見て「この頭はたががゆるんでいる」と言ったのは、森鷗外(もり おうがい)。「鷗外君はなかなか悪口が上手な人であった」と懐かしむ守敬。鷗外とは欧州留学時代からの友でした。守敬は制作に悩むと、この銅像建設事業の実質的な中心人物だった井上馨(いのうえ かおる)(※9)に度々相談。5人の服装にもこだわり、乃木希典(のぎ まれすけ)(※10)をはじめ、さまざまな長州人の助言をもとに、塑像を完成させました。

やがて先に鋳造を終えた4支藩主像が、明治32(1899)年、東京・新橋駅から前年に開業したばかりの三田尻駅に到着。当時の地方紙によれば、駅からは2頭・3頭立ての10台余りの牛車で亀山へ運ばれました。その後、敬親の騎馬像も完成。騎馬像はひときわ巨大で、鉄道の「トンネルが通らぬ」という問題が発生します。急きょ、事業者側の「長州人の頑張りで鉄道院に交渉し」、貨車の台の一部をへこませてもらって運んだと守敬は語っています。

明治33(1900)年4月15日、毛利家の人々や伊藤博文をはじめ、名だたる長州生まれの政治家や募金した多くの人々が出席し、銅像5基の除幕式が盛大に行われました。地方紙は特大号を組んで報道し、山口の人々は提灯(ちょうちん)や造花で町を飾り、自転車大競争会なども開催。除幕式当日後も、芸妓(げいぎ)たちが奇兵隊の仮装などをして町に繰り出して踊り、祝福。明治39(1906)年には元徳像も加わり、亀山公園は山口の観光名所となりました。

ところが第二次世界大戦下の昭和19(1944)年2月、銅像は兵器用の材料として供出されることになります。地方紙には、6基の銅像が赤だすきを掛けられ、千人余りに見送られて「出陣」したとあり、公園には台座だけが残されました。

現在、公園にあるのは昭和55(1980)年に別の制作者によって、往時の像を元に再建された敬親像のみ。しかし、5基の完成を祝って寄進された灯籠(とうろう)など(※11)に往時をしのぶことができます。当時、一つのテーマで6基もの銅像が多くの人々の募金によって建設された例は他になく、幻の銅像たちは、近代を歩み始めた長州の人々の団結力と明治維新への誇りを伝えてくれます。

「毛利敬親公像」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

制作中の「毛利敬親公像」(画像提供 萬鉄五郎記念美術館)。像は現存しない
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「毛利元周公像」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

長府藩主「毛利元周公像」(画像提供 萬鉄五郎記念美術館)。像は現存しない
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「毛利元蕃公像」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

制作中の徳山藩主「毛利元蕃公像」(画像提供 萬鉄五郎記念美術館)。像は現存しない
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「忠愛公御銅像」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「忠愛公御銅像(毛利元徳)」(山口県文書館蔵)。像は現存しない
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「毛利元純公像」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

清末藩主「毛利元純公像」(画像提供 萬鉄五郎記念美術館)。像は現存しない
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「吉川経幹公像」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

岩国藩主「吉川経幹公像」(画像提供 萬鉄五郎記念美術館)。像は現存しない
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  • ※1 敬親像の台座には、藩の危機を自刃して救った家老ら4人のレリーフがあった。4人は、禁門の変の責めを負って元治元(1864)年12月11日・12日に自刃した益田親施(ますだ ちかのぶ)、福原元們(ふくばら もとたけ)、 国司親相(くにし ちかすけ)、そして尊王攘夷派の中心人物の一人で12月25日に自刃した清水親知(しみず ちかとも)。本文※1へ戻る
  • ※2 支藩主の像は長府藩主・毛利元周(もとかね・もとちか)、徳山藩主・毛利元蕃(もとみつ)、岩国藩主・吉川経幹(きっかわ つねまさ)、清末(きよすえ)藩主・毛利元純(もとずみ)。 本文※2へ戻る
  • ※3 塑像は粘土などで肉付けして作る像。粘土で作った像から石膏(せっこう)の原型を作り、青銅で鋳造し、銅像が完成。本文※3へ戻る
  • ※4 現在の岩手県出身。東京美術学校(現在の東京芸術大学)塑像科の初代教授。本文※4へ戻る
  • ※5 萩藩(現在の山口県)出身。吉田松陰(よしだ しょういん)の門下生。初代内閣総理大臣。本文※5へ戻る
  • ※6 「贈従一位忠正公并(ならびに)支藩諸公銅像建設趣意書」(山口県文書館蔵)。なお、本文では意訳して掲載。本文※6へ戻る
  • ※7 明治32(1899)年9月5日号『太陽』に掲載された芳陵生「毛利敬親公銅像談」や、詩人・彫刻家の高村光太郎(たかむら こうたろう)が守敬に聞き書きした『中央公論』昭和11(1936)年7月号「現代美術の揺籃時代」内「毛利家の銅像」。本文※7へ戻る
  • ※8 『山口きらめーる』2011年9月23日号「おもしろ山口学」参照。吉川経幹の写真も同日、同じ場所で撮影。本文※8へ戻る
  • ※9 萩藩(現在の山口県)出身。初代外務大臣。本文※9へ戻る
  • ※10 長府藩(現在の山口県)出身。陸軍大将。後に学習院院長も務めた。本文※10へ戻る
  • ※11 他に、山頂広場に造られた池に、かつて藩主公館「御茶屋」前の橋の欄干(らんかん)だった「山口御ちやゝはしらんかん」と刻まれた石材などが残る。本文※11へ戻る
【参考文献】
石井元章『明治期のイタリア留学:文化受容と語学習得』2017
一関市博物館『没後70年彫刻家 長沼守敬展 守敬・ロダン・碌山・光太郎』2012
内田伸『写真集 明治大正昭和 山口』1979
関門日報社『関門日報』1944
「贈従一位忠正公并支藩諸公銅像建設趣意書」(山口県文書館蔵)
長沼守敬「毛利家の銅像」(山口県文書館蔵)
平瀬礼太『銅像受難の近代』2011
防長新聞社『防長新聞』1899、1900
山口市『山口市史』1982
横浜開港資料館『図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官』2001
萬鉄五郎記念美術館『長沼守敬とその時代展』2006など
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