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2016年12月22日号 vol.320
おもしろ山口学/大坂の陣と毛利氏の危機 ‐佐野道可事件‐

写真:佐野道可(内藤元盛)や長男・内藤元珍の墓所がある古刹「瑞松庵」(宇部市船木)。

第2回 道可の息子たちにおよんだ悲劇と毛利氏の関与

「大坂の陣」で徳川方に付いた毛利氏。しかし戦いの後、毛利氏の上級家臣だった人物が大坂城に入り、豊臣方に付いていたことが明らかとなりました。この件に毛利氏は関与していたのかどうかを紹介します。

山口県文書館 資料小展示「防長の大坂陣こぼれ話 -大坂方武将とその子孫たち-」
豊臣方の真田信繁(さなだ のぶしげ)の子孫が徳山藩(萩藩の支藩・現在の周南市など)に仕えたという伝承など、豊臣方と徳山藩との意外な関わりを示す資料を展示します。
開催期間:12月27日(火曜日)まで。月曜日・祝日は休館
場所:山口県文書館

徳川家康(とくがわ いえやす)が豊臣(とよとみ)氏を滅ぼした大坂の陣。このとき毛利(もうり)氏は徳川軍として戦いました。しかし、毛利氏にゆかりのある「佐野道可」(さの どうか)と名乗る人物が大坂城に籠城(ろうじょう)していた、というのです。道可の元の名は、内藤元盛(ないとう もともり)。毛利元就(もとなり)のひ孫に当たる人物です(※1)。道可の籠城が家康に知られ、毛利氏が薄氷を踏む事態となったのは、慶長20(1615)年5月8日に豊臣秀頼(ひでより)(※2)が自刃して間もない頃でした。

大坂から逃れた道可は5月21日、山城国(現在の京都府南部)で切腹(※3)。しかし、ことはそれだけで済まず、萩藩主・毛利秀就(ひでなり)の父・輝元(てるもと)は7月、幕府の命に従い、道可の妻子を京都へ向かわせます。このとき、道可の息子2人(※4)は「道可は輝元の勘気(かんき)を蒙(こうむ)って天正17(1589)年から国元を追放されていたので、私たちは道可の籠城に一切関知しておりません」と弁明書を作成し、関与を否定します。また、幕府との折衝に当たっていた毛利氏の重臣(※5)は「両殿様」(輝元・秀就)の側近に、「両殿様から幕府への口添えがあれば道可の妻子は助かりそうなので、口添えくださるよう頼んでほしい」と依頼し、彼らの助命に向けて動きます。さらに秀就の後見役で、大坂の陣でも活躍した長府藩主の毛利秀元(ひでもと)も、道可の大坂入城に息子たちは関わっていないことを幕府に伝え、彼らの救済へと動きました。

しかし10月、道可の妻や娘の命は助かったものの、息子2人は京都から領地へ帰ってきた後になって、輝元の命令で自刃という結末となったのです(※6)。後に、この知らせを聞いた幕臣の柳生宗矩(やぎゅう むねのり)(※7)から、道可の兄(※8)に次のような手紙が届きます。「宗瑞(そうずい。輝元)様・秀就殿から仰せがあれば、拙者が家康様への使者となって道可の子たちの助命に一肌脱ごうと考えていたのに、切腹を命じられたと聞き、痛ましいことだと思っています(※9)」…。

輝元は道可に息子たちのことを約束していた?!

この事件については、輝元が大坂の陣の前、道可に大坂入城を依頼するとともに、その息子たちの取り立てを約束した、とされる起請文(きしょうもん)があります(※10)。こうした輝元の行動などから従来は、輝元が、かつて豊臣秀吉から秀頼のことを託されたが故に見捨てきれず、道可に兵糧と兵を与えて大坂城に籠城させたのだ、と解釈されてきました(※11)

しかし近年、この事件の再検討が進められ、従来とは異なる説が出てきています。例えば、輝元が道可に与えたという起請文は、後に作られた可能性があり、また当時の毛利氏は徳川氏を第一に考えていたことから、毛利氏と道可の大坂入城とは無関係とする説(※12)。あるいは、息子たちの弁明にあった天正17年の道可の追放は事実ではなく、毛利氏が幕府への弁明用に偽装したと捉え、「豊臣方勝利の際の保険として、宗瑞(輝元)が道可を利用した」とする説などです(※13)

結果として、毛利氏は危機を脱しました。それにしても、なぜ輝元は息子たちまで自害させたのか。徳川幕府は本当に息子たちを許すつもりだったのか(※14)。いまだ謎の多い佐野道可の事件…。当時も人々の心に強く残る事件だったことでしょう。道可とその関係者は船木(現在の宇部市)の瑞松庵(ずいしょうあん)に墓所が造られ、400年を経た今も彼らの菩提(ぼだい)は弔われ続けています。

福原広俊書状の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「福原広俊書状((元和元年)8月16日付け)」(山口県文書館蔵)。広俊が道可の息子たちの助命のため、両殿様に幕府への口添えを依頼したもの
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佐野道可の墓所の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

瑞松庵にある佐野道可の墓所(宇部市船木)。手前が道可、隣に長男・元珍、その奥には一族の5人の幼子、元珍と共に自刃した忠臣2人の墓があり、400年を経た今も大切に守られている
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瀧谷寺の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

佐野道可の長男・内藤元珍は瀧谷寺(りゅうこくじ)で自刃(防府市富海)。次男・粟屋元豊は美祢郡岩永村(現在の美祢市)で自刃、または瀧谷寺で自刃したともいわれている
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  • ※1 毛利一門筆頭・宍戸(ししど)氏の生まれで、かつて大内氏重臣で長門国守護代だった名族・内藤惣領家の婿養子。なお、戦国武将・毛利元就の娘は宍戸氏に嫁ぎ、その間に生まれた娘(道可のおば)が輝元の正室。本文※1へ戻る
  • ※2 豊臣秀吉(ひでよし)の子。本文※2へ戻る
  • ※3 毛利家文庫「譜録」(山口県文書館蔵)による。本文※3へ戻る
  • ※4 長男は内藤元珍(もとよし)。次男は養子に行き、粟屋元豊(あわや もととよ)と名乗る。本文※4へ戻る
  • ※5 福原広俊(ふくばら ひろとし)。幕府との交渉役を担った。なお、息子の妻が道可の娘。本文※5へ戻る
  • ※6 毛利家文庫「譜録」(山口県文書館蔵)によれば、内藤元珍は領地の富海(とのみ。現在の防府市)の瀧谷寺で切腹。粟屋元豊は領地の岩永村(現在の美祢市)で切腹。本文※6へ戻る
  • ※7 家康の側近、2代将軍秀忠(ひでただ)・3代将軍家光(いえみつ)の兵法師範も務めた。本文※7へ戻る
  • ※8 毛利一門筆頭・宍戸家の当主、宍戸元続(もとつぐ)。本文※8へ戻る
  • ※9 毛利家文庫「柳生宗矩書状写(元和元(1615)年11月21日付)」(山口県文書館蔵)による。本文※9へ戻る
  • ※10 『萩藩閥閲録』巻28内藤孫左衛門文書(年次未詳)による。なお、起請文とは、偽りがないことを神仏に誓い、相手に表明する文書。本文※10へ戻る
  • ※11 三卿伝編纂所『毛利輝元卿伝』。同書の初出は昭和19(1944)年。輝元・秀就・長府藩主の毛利秀元(ひでもと)が極秘に謀り、道可の兄・宍戸元続を介して道可を籠城させたとする。なお近年の研究では、当時、毛利家中で関与を疑われたのは秀元ではなく、岩国の吉川(きっかわ)氏と考えられている。本文※11へ戻る
  • ※12 堀智博「毛利輝元と大坂の陣」『偽りの秀吉像を打ち壊す』。本文※12へ戻る
  • ※13 光成準治『毛利輝元‐西国の儀任せ置かるの由候-』。本文※13へ戻る
  • ※14 幕臣・板倉勝重(いたくら かつしげ)の福原広俊宛8月10日付(元和元年)の手紙には、「幕臣の本多正純(ほんだ まさずみ)が言うには道可の子などを成敗するように、ただし娘1人については、そのまま息子の嫁に留めておくことを許す」、とある。本文※14へ戻る
【参考文献】
三卿伝編纂所『毛利輝元卿伝』1982
田中洋一『毛利秀元拾遺譚-元就の再来-』2016
平川弥太郎『白藪椿 毛利輝元の密謀』2008
堀智博「毛利輝元と大坂の陣」『偽りの秀吉像を打ち壊す』2013
光成準治『毛利輝元‐西国の儀任せ置かるの由候-』2016
毛利家文庫14軍記22「大坂陣」(山口県文書館)
毛利家文庫5家臣39「佐野道可一件」(山口県文書館)
山口県『山口県史 史料編 近世1上』1999
山口県文書館 平成27年度第2回資料資料小展示
山口県文書館 平成28年度第9回資料資料小展示 など
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