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2016年11月25日号 vol.319
おもしろ山口学/大坂の陣と毛利氏の危機 ‐佐野道可事件‐

写真:萩市堀内地区。かつて毛利一門や上級武士の屋敷が並んでいた。今も往時の建造物や地割りがよく保持され、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

第1回 冬の陣・夏の陣と毛利氏

「大坂の陣」で徳川方に付いた毛利氏。しかし、実はその時、毛利氏の上級家臣だった人物が大坂城に入り、豊臣方に付いていました。広く知られていない陰の歴史を紹介します。

山口県文書館 資料小展示「防長の大坂陣こぼれ話 -大坂方武将とその子孫たち-」
豊臣方の「大坂五人衆」として知られる後藤又兵衛(ごとう またべえ)の長男が、大坂の陣の前、一時、毛利氏に預けられていたことや、真田信繁(さなだ のぶしげ)の子孫のことなど、毛利氏との意外な関わりを示す資料を展示します。
開催期間:12月1日(木曜日)から12月27日(火曜日)まで。月曜日・祝日は休館
場所:山口県文書館

かつて、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)から幼子・秀頼(ひでより)のことを託された五大老の一人・毛利輝元(もうり てるもと)。関ケ原の戦いでは西軍の総大将だったことから、戦後、徳川家康(とくがわ いえやす)によって、領国を大幅に減らされて2カ国(※1)のみになるとともに、自身は隠居し、子息の秀就(ひでなり)を初代萩藩主に据えました。しかし、その後も家の存続は容易ではなく、大坂の陣では薄氷を踏む事態となります。多くの豊臣恩顧の大名と同様、毛利氏も徳川方に従いましたが(※2)、上級家臣だった人物が佐野道可(さの どうか)(※3)と改名して、ひそかに大坂城に籠城(ろうじょう)していたのです。まずは、大坂の陣における毛利氏の動きをたどります。

徳川氏と豊臣氏の軍事的衝突が避けられなくなり、両者が戦争へと向かっていったのは慶長19(1614)年のことでした。そうした中で9月、江戸城の石垣普請に従事していた毛利秀就は家康の求めに応じ、決して背かないと誓った起請文(※4)を差し出します。10月半ばには国元にいた毛利輝元に対し、すでに京都に到着していた家康から出陣命令が届きます。徳川方の大軍が大坂城を囲んだ11月17日、輝元は船で兵庫(現在の神戸市)に到着。しかし、体調を崩したことから、後を秀就に託して帰国しました。大坂での毛利軍は、城を囲む徳川方に加わる一方で、大坂城の堀に流れ込む川の水をせき止めるため、その上流に堰(せき)を築くよう家康から命じられ、その工事を行ったようです。

大坂夏の陣が終わって到着した毛利秀就と、家康に知られた佐野道可の大坂城入り

11月19日に大坂冬の陣が開戦。最大の戦いとなった12月4日の「真田丸の戦い」は、真田信繁らの活躍によって押し寄せた徳川方を撃退します。その後も小競り合いは続きますが、12月20日に和議が成立。しかし、その直後から徳川方によって和議の条件を無視した城濠(じょうごう)の埋め立て工事などが強引に進められ、大坂城の防備力はほとんど失われました(※5)

徳川方と豊臣方の間で再び緊張感が高まり、家康は慶長20(1615)年4月、西国の諸大名に出陣準備を命じ、大坂夏の陣へと突入します。5月6日・7日の決戦で豊臣方の敗色が濃厚となり、7日夕方には、ついに大坂城天守閣に火がかけられました(※6)

この夏の陣では、毛利軍は、輝元に命じられた長府藩主・毛利秀元(ひでもと)(※7)が急ぎ戦場に駆けつけました。しかし、萩藩主・秀就が大坂に着いたのは大坂城陥落後のこと。秀就は秀元と共に家康に謝罪したところ、とがめられることはなく、毛利氏の大坂の陣は何事もなく終わりを迎えるはずでした。

ところが、その直後、緊迫の事態が訪れます。上級家臣だった佐野道可が、前年からひそかに大坂城に籠城していたことが家康に知られたのです。この事件に毛利氏はどう対処し、家の存続を脅かす危機を切り抜けたのか、また事件に毛利氏が関与していたのかどうか、近年の説も交えて、次回、ご紹介します。

江戸幕府年寄連署奉書の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「江戸幕府年寄連署奉書(慶長19年11月10日付け)」(山口県文書館蔵)。 冬の陣の開戦9日前、将軍・徳川秀忠に近侍する幕府年寄が毛利秀就に早急な出陣を求めている
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天樹院墓所の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「天樹院墓所」(萩市)。萩城跡近く、堀内にある毛利輝元の墓所。輝元の死去後、その菩提を弔うため、彼の隠居所の地に天樹院が建立されたが、明治維新後、廃寺になり墓所が残る
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萩城五層楼写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「萩城五層楼写真」(山口県文書館蔵)。写真は明治維新期のころ。萩城は明治7(1874)年に破却された
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  • ※1 周防国(すおうのくに)と長門国。現在の山口県。本文※1へ戻る
  • ※2 大坂五人衆の一人・毛利勝永(かつなが)は、輝元ら毛利氏一族(本姓・大江氏)とは異なる。本姓は森氏。父は尾張国(現在の愛知県西部)出身で、秀吉に仕えて小倉城主となり、毛利と名乗ることを許された。勝永は関ヶ原の戦いでは西軍に属したため改易とされた。本文※2へ戻る
  • ※3 内藤元盛(ないとう もともり)。毛利一門筆頭・宍戸(ししど)氏の生まれで、かつて大内氏重臣で長門国守護代だった名族・内藤惣領(そうりょう)家の婿養子となった。本文※3へ戻る
  • ※4 偽りがないことを神仏に誓い、相手に表明する文書。本文※4へ戻る
  • ※5 大坂城二の丸・三の丸の破壊、外堀の埋立工事に毛利氏は参加した。本文※5へ戻る
  • ※6 毛利秀元の書状によれば、当初、豊臣秀頼は大坂城炎上と共に自刃したと捉えていたが、翌朝、秀頼は隠れているのを見付けられ、徳川秀忠の命令で自刃となったという。本文※6へ戻る
  • ※7 長府藩は、毛利本家である萩藩の支藩。なお、秀元は毛利元就(もうり もとなり)の四男の子。輝元に実子・秀就が誕生するまで、輝元の養子となっていた。慶長14(1609)年、秀就の後見役として江戸へ赴いた。本文※7へ戻る
【参考文献】
三卿伝編纂所『毛利輝元卿伝』1982
田中洋一『毛利秀元拾遺譚-元就の再来-』2016
平川弥太郎『白藪椿 毛利輝元の密謀』2008
堀智博「毛利輝元と大坂の陣」『偽りの秀吉像を打ち壊す』2013
光成準治『毛利輝元‐西国の儀任せ置かるの由候-』2016
毛利家文庫14軍記22大坂陣
山口県『山口県史 史料編 近世1上』1999
山口県文書館 平成27年度第2回資料資料小展示 など
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