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2016年9月23日号 vol.317
おもしろ山口学/幕長戦争

写真:(左)「九州小倉合戦図」(部分)(下関市立歴史博物館蔵)、(右)長州軍の蒸気軍艦「丙寅丸御用旗(へいいんまるごようき)」(東行庵蔵・下関市立東行記念館寄託)。高杉晋作は丙寅丸を指揮して大島口の戦いで幕府軍艦を奇襲後すぐ、小倉口の戦いへ向かった。

第3回 石州口の戦いと小倉口の戦い

幕長戦争から今年で150年。長州の四つの国境で戦ったことから「四境(しきょう)戦争」とも呼ばれます。その中から「石州口の戦い」と「小倉口の戦い」を紹介します。

長州軍が幕府方と戦い、実質的に勝利した「幕長戦争」。慶応2(1866)年6月7日の「大島口の戦い」から始まり、14日には「芸州口の戦い」、16日には浜田藩の益田(現在の島根県益田市)で「石州口の戦い」が開戦します。石州口の戦いは、萩藩(※1)の軍制を改革した大村益次郎(おおむら ますじろう)(※2)自らが初めて実戦の場へ出て、参謀(※3)を務めながら実際の指揮も執った戦いでした。益次郎は、狙撃に習熟した西洋式軍備の少人数の兵を有効に生かす「散兵戦術」を駆使。兵員数で勝る幕府方を圧倒していきます。

一方、幕府方は封建身分制軍隊で、多くは旧式軍備でした。封建身分制軍隊は、戦士(武士)にそれぞれ槍(やり)などを持った従者が付きます。しかし、いざというときに従者が逃亡することもありました。また、軍需品や兵糧の補給などを担う軍夫も重要でありながら、幕府方の諸藩軍では遠方から連れてきた軍夫が数多く逃亡し、戦いに影響を与えました。そうした幕府方に対して、長州軍は益次郎の作戦もうまく機能し、石州口の戦いは開戦から約1カ月後に終結しました。

勝利におごらず将来を見据えた長州

石州口の開戦の翌日、現在の福岡県北九州市が戦場となった「小倉口の戦い」が開戦します。それは他と異なり(※4)、長期化した戦いとなりました。
 長州軍は、開戦時などでは海軍と陸軍による早朝からの奇襲で、幕府方の小倉藩軍に対し、押し気味に戦いを進めます。しかし、7月27日の赤坂(現在の北九州市小倉北区)での戦いは大激戦となり、幕長戦争で最も多い犠牲者を出すことになりました。原因は、幕府方の当時最新の軍艦3隻による攻撃や、熊本藩軍の高所に築いた陣地からの大砲による攻撃などが考えられます。また、坂本龍馬(さかもと りょうま)(※5)が後に長州軍兵士から聞いた話によれば(※6)、小隊司令士が熊本藩軍を相手に「烈戦死(※7)」し、それを機に統制が失われたことも引き金となったようです。
 ところが7月30日、事態が一変します。幕府方を指揮する幕府老中が突然、小倉を脱出。諸藩軍も撤兵し(※8)、幕府方は小倉藩軍のみに。そうした中で小倉藩軍は小倉城に火を放って拠点を移し、戦いを続行。ようやく止戦交渉が始まったのは10月のことで、和議の成立は慶応3(1867)年1月まで長引くこととなりました。 止戦交渉が始まったころ、萩藩政治の中枢にいた木戸孝允(きど たかよし)は、ある手紙でこんなふうに述べています。幕長戦争の勝利は「高運(極めて良い運)」であり、「大略(※9)を怠ると藩の力は疲弊する」…と(※10)。結果は極めて運に恵まれてのことと捉え、早くも今後を見据えていく長州。一方、圧倒的な兵員数を持ちながら実質的に敗退し、権威を失墜させた幕府。この幕長戦争を機に、長州は抗幕から討幕へと転じていくことになりました。

鋳銭司郷土館の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

大村益次郎の遺品などを展示している「鋳銭司郷土館」(山口市)。隣には益次郎をまつる大村神社がある
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浜田藩士・岸静江国治の墓と位牌堂の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

浜田藩士・岸静江国治(きし しずえ くにはる)の墓と位牌堂(いはいどう)。石州口の戦いで、扇原関門を守る浜田藩の守衛隊長・国治は部下らを退避させ、孤軍奮戦し、戦死。長州軍は彼をたたえ、手厚く葬った(島根県益田市)
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嚴島神社の大太鼓の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

小倉口の戦いゆかりの品。奇兵隊は小倉城の大太鼓を持ち帰り、嚴島神社(下関市)に奉納。小倉延命寺の灯籠は現在の金麗社(美祢市美東町)に奉納した
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  • ※1 長州の本藩。幕末、城を萩から山口へ移鎮しますが、きらめーるでは萩藩として表記します。なお、長州藩とも呼ばれます。本文※1へ戻る
  • ※2 鋳銭司村(現在の山口市)出身の医師で、後に兵学者となった。本文※2へ戻る
  • ※3 高級指揮官を補佐する役目の将校。石州口の戦いの総司令は萩藩の支藩・清末藩の藩主が務め、出陣したが、長州内に留まることになった。本文※3へ戻る
  • ※4 大島口の戦いは慶応2年6月17日に幕府方が撤退。芸州口の戦いは9月2日に休戦講和。征長軍(幕府方)の先鋒(せんぽう)総督は9月4日、芸州口・石州口の征長軍に解兵を命じた。本文※4へ戻る
  • ※5 龍馬は当時、萩藩がグラバーから薩摩藩名義で購入した蒸気軍艦の引き渡しに下関へやってきており、小倉口の戦いの開戦時、その軍艦を率いて参戦した。本文※5へ戻る
  • ※6 木山貴満「荘村助右衛門の慶応三年『崎陽新聞』について」による。なお、「崎陽新聞」とは、龍馬が長州軍の兵士から話を聞き、それを龍馬から聞いた熊本藩士・庄村助右衛門(しょうむら すけえもん)が別の熊本藩士へ報告したもの。本文※6へ戻る
  • ※7 烈戦とは「激しい戦い」。「烈戦死」とは、激戦の中での死、あるいは激しく戦って死んだという意味。本文※7へ戻る
  • ※8 脱出・撤退の理由は確実な史料がなく、不明。なお、第14代将軍徳川家茂(とくがわ いえもち)は7月20日に死去していた。本文※8へ戻る
  • ※9 ここでの大略とは、遠大なはかりごと、つまり、将来を見据えた改革を怠るな、といった意味と思われる。本文※9へ戻る
  • ※10 萩藩士山田宇右衛門(やまだ うえもん)に宛てた慶応2(1866)年10月12日付の孝允の書状。本文※10へ戻る
【参考文献】
木戸孝允『木戸孝允文書』2 1985
木山貴満「荘村助右衛門の慶応三年『崎陽新聞』について」『熊本博物館 館報』25 2013
三宅紹宣「幕長戦争小倉口戦争の展開過程」『山口県地方史研究』100 2008
三宅紹宣『幕長戦争』2013
山口県編『山口県史 史料編 幕末維新』4 2010 など
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