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2016年8月26日号 vol.316
おもしろ山口学/幕長戦争

写真:小瀬川沿いにある碑「四境之役 封境之地」(和木町)。長州軍や地元の人々の奮闘により、幕府方が長州に入ることはついになかった

第2回 芸州口の戦い

幕長戦争から今年で150年。長州の四つの国境で戦ったことから「四境(しきょう)戦争」とも呼ばれます。その中から、芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)の父も戦った「芸州口の戦い」を紹介します。

幕長戦争はこれまで通説では、優れた西洋式軍備の長州軍が旧式軍備の幕府方に勝利した戦い、と捉えられてきました。しかし、近年の研究により、幕府陸軍や諸藩などからなる幕府方の中にも西洋式軍備の軍はあり、長州軍の実質的な勝利は、さまざまな要因によるものであることが分かってきました。

慶応2(1866)年6月7日、「大島口の戦い」から始まった幕長戦争。14日夜中の2時には、芸州(現在の広島県西部)との境を流れる小瀬川(おぜがわ)の北岸の大竹村(現在の広島県大竹市)に出陣した幕府方から、南岸の長州の和木村(現在の山口県和木町)に大砲の弾が撃ちこまれ、「芸州口の戦い」が開戦します。この時の幕府方は、旧式軍備による武士のいでたち。対する長州軍は西洋式軍備・軍装に加え、習熟した西洋戦術のもと、木々の間や山の上から「猿のごとく(※1)」動き回りながら発砲。その「散兵戦術(※2)」によって、幕府方を圧倒し、総退却させることに成功します。

ただし、初戦の後は苦戦が続きました。当時最新の軍艦や西洋式軍備を有する幕府方との戦いとなったためです。しかも大野村(現在の広島県廿日市市)では、兵数が幕府方の約10分の1での戦いとなり、最大の激戦となりました。

休戦間もない時期に建立された彦根藩兵供養の墓碑

その激戦で深手を負った長州軍の兵に芥川龍之介の実父・新原敏三(にいはら としぞう)(※3)がいます。敏三は生見村(いきみむら。現在の岩国市美和町)の農民出身で、有志からなる御楯隊(みたてたい)(※4)に入隊していました。御楯隊からは他にも多くの死傷者が出て、ある小隊では小隊長が銃弾に倒れますが、すぐに指揮は副官へ、副官が倒れるとさらに次の立場の兵が代わって奮戦。長州軍は実力主義で、兵士も指揮官になれるため、いつでも指揮を執る自覚のもとに訓練していた成果が出ています。

また、戦場となった芸州の人々に萩藩(※5)は速やかに心を配りました。兵火で被災した人々には炊き出しを行い、長州軍が使用した家には損料を払い、病人には医師を派遣。そうした配慮は人々に好感を与え、長州軍の後押しとなりました。

やがて宮内村(広島県廿日市市)で長州軍が勝利し、8月9日、幕府方はことごとく撤退。そして9月2日、芸州口の戦いの休戦講和が結ばれました。

それから今年で150年。和木町では、開戦の日に幕府方の使者として小瀬川を渡ろうとした際に、長州軍から狙撃されて亡くなった彦根藩士(※6)らの慰霊祭が、その墓前で行われました。墓は狙撃した長州軍の兵が中心となって、休戦間もない秋に建てたもの。そこには次のように刻まれています。「ああ、国を遠く離れ、隊に先んじて不測の地に入り、遂にその主のために死す。敵であってもその美を埋もれさせてよいものだろうか」。 幕長戦争を見つめると長州軍の勝因だけでなく、敵・味方を超え、さまざまな立場の人々の思いや暮らし、まなざしまで浮かび上がってきます。

彦根戦死士之墓の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

和木町の「安禅寺」の墓地にある「彦根戦死士之墓」。地域の人々によって33回忌が営まれたほか、四境の役100年祭には彦根藩士や長州軍兵士の末裔(まつえい)につながる方、150年祭には旧彦根藩主や旧岩国藩主の現当主が参加されて慰霊祭が営まれた
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和木町歴史資料館の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

和木町の蜂ヶ峯総合公園にある「和木町歴史資料館」。芸州口の戦いの経過や開戦時の彦根藩士の一件について、ビデオなどを通じて知ることができる
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芥川龍之介父子の碑の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

新原家の菩提寺、岩国市美和町の「真教寺」境内にある「芥川龍之介父子の碑」。「本是山中人(もとこれさんちゅうのひと)」は龍之介の言葉。友人で詩人の佐藤春夫は、その言葉は「その祖先の地を思い出していたのであった」と私見を記した
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  • ※1 幕府方として出陣した、高田藩の老職(家老などの職)が語ったことを記した「芸州表出陣中日記」による。散兵戦術に接した衝撃が記されている。なお、高田藩は越後国高田(現在の新潟県上越市)に藩庁を置いた藩。本文※1へ戻る
  • ※2 兵士を適当な距離に散開させて行う戦術。少数の兵で多数の兵に立ち向かう場合に有効。兵士が散開するため指揮官の命令が行き届かず、兵士の自発性が必要。三宅紹宣(みやけ つぐのぶ)『幕長戦争』による。本文※2へ戻る
  • ※3 明治維新後、関東へ。渋沢栄一(しぶさわ えいいち)の耕牧舎に入社し、東京でその牛乳販売の管理者に。芥川ふくと結婚。夫妻の長男・龍之介は母の死後、芥川家の養子に。龍之介の未定稿「紫山」には、実父を連想させる「維新の革命に参した長州人の血もまじってゐ(い)る」という表現がある。本文※3へ戻る
  • ※4 山田顕義(やまだ あきよし)らによって、武士・農民・商人などの有志で結成。長州の諸隊の一つで、日々、隊士として訓練を積んだ。農村にいて農閑期に訓練した農兵とは異なる。本文※4へ戻る
  • ※5 長州の本藩。幕末、城を萩から山口へ移鎮しますが、きらめーるでは萩藩として表記します。なお、長州藩とも呼ばれます。本文※5へ戻る
  • ※6 長州軍は深い霧が立ち込めていて、使者の姿を進撃と見誤ったことなどから発砲したとされる。ただし、既に和木村を砲撃しており、使者を出すタイミングではなかった。墓は和木町の安禅寺(あんぜんじ)の墓地にある。本文※6へ戻る
【参考文献】
沖本常吉『芥川龍之介以前 本是山中人』1977
末松謙澄『修訂 防長回天史』2009
三宅紹宣「芥川龍之介実父新原敏三と長州藩御楯隊」『日本歴史』724 2008
三宅紹宣『幕長戦争』2013
美和町教育委員会『フォーラム 本是山中人 父の故郷で語ろう芥川龍之介の人と文学』1999
山口県公式ウェブサイト「維新史回廊トピックス<Vol.5>四境戦争(長州戦争)-小瀬川口の戦い・その3-」
山口県編『山口県史 史料編 幕末維新』4 2010
山口県編『山口県史 史料編 幕末維新』6 2001 など
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