ここから本文

2016年7月22日号 vol.315
おもしろ山口学/幕長戦争

写真:周防大島町久賀(くか)の海。高杉晋作(たかすぎ しんさく)は藩政府の指令で軍艦を出動。6月12日夜、久賀沖へ。深夜、幕府の蒸気軍艦を奇襲。大きな損害は与えられなかったが長州軍反撃の突破口を開く。晋作は幕府海軍が長期碇泊(ていはく)する際、蒸気機関の火を落とすということを、収集した情報を分析することによりつかんでいた。

第1回 大島口の戦いと薩長盟約

幕長戦争から今年で150年。長州の四つの国境で戦ったことから「四境(しきょう)戦争」とも呼ばれます。その始まりと薩長盟約を紹介します。

毛利博物館企画展「『四境戦争』再考」
なぜ萩藩が攻撃され、その危機をどう乗り越えたか、毛利博物館が所蔵する古文書から紹介。
期間:9月4日(日曜日)まで

慶応2(1866)年、長州軍が幕府方と戦った「幕長戦争」。それは結果的に幕府の権威を失墜させ、抗幕から、その後、討幕へと向かわせる節目となった戦いでした。

そもそも萩藩(※1)と幕府との対立の始まりは、外交方針の相違にありました。幕府は列強の圧力に押され、開国。それに対し、萩藩は攘夷(じょうい)を主張。藩の重臣だった周布政之助(すふ まさのすけ)が考えていたように、列強による植民地化を防ぐには、まず国を挙げて攘夷を行い、その後、主体的に開国を行うべき、というものでした。

幕長戦争の2年前、萩藩は幕府・朝廷から「長州征討令」を下されますが、謝罪し、開戦に至らず終結。ところが翌・慶応元(1865)年5月、さらに「長州再征」へ向けて幕府将軍が進発する、という知らせが届きます。それを受けて、藩政の中枢に立った木戸孝允(きど たかよし)(※2)は閏(うるう)5月、藩の方針を「待敵」と打ち出します。すなわち、攻められた場合にやむをえず抗戦(防戦)、とすることで藩の正当性を示そうと考えたのです。そのころの孝允の手紙に「今の長州は日本の病を治すには良い道具」と記されたものがあり(※3)、藩の存続よりも日本の未来を案じての決意だったことがうかがえます。

薩長の接近は薩長盟約前にイギリスで報道されていた!!

当時すでに、それまで敵対していた萩藩と鹿児島藩(薩摩藩)との和解が進み始めていました。そうした中、幕府から再征の対象とされていた萩藩は7月、鹿児島藩の名義を借りてイギリス人のグラバー(※4)から銃を購入します。驚いたことにイギリスでは、この頃、新聞で「薩摩藩主は長門(※5)に与する(味方する)つもりである、といううわさが流れた」と報じられていたことが近年明らかになりました(※6)。そして9月、長州再征の勅許。これには鹿児島藩の大久保利通(おおくぼ としみち)が「非義の勅命は勅命にあらず(※7)と皇族に強く主張しますが、勅命がくつがえることはありませんでした。

やがて慶応2(1866)年1月、薩長盟約(薩長同盟)がひそかに締結されます。その内容は、開戦となればすぐさま鹿児島藩は兵を率いて上京し、京都や大坂(※8)に兵を置き、後方支援を行うといった6カ条から成っていました。そして4月、鹿児島藩の利通は幕府に長州への出兵を拒否。そのことは直ちに萩藩に伝えられました。

6月7日、ついに幕府軍艦から横島(現在の上関町)近辺と安下庄(あげのしょう。現在の周防大島町)が砲撃されます(大島口の戦い)。木戸孝允は10日夜、応戦を決断し、その日のうちに大久保利通に決断を知らせる手紙を書きます。そして連絡を受けた西郷隆盛(さいごう たかもり)は7月、鹿児島から兵を上京させ、薩長盟約を実行。鹿児島藩の後方支援は幕府方への圧力となり、芸州口の戦い・石州口の戦い・小倉口の戦いと続く幕長戦争を、長州有利に導く原因の一つとなったのでした。

覚法寺の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

久賀では、幕府方の放火で多くの家が焼失。写真は長州軍の防衛拠点の一つで、第二奇兵隊や山口に急を知らせた僧・大洲鉄然(おおず てつねん)の「覚法寺」。なお久賀では今年7月、長州軍・幕府方双方の戦没者合同追悼式が行われた
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

西蓮寺の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

6月15日、長州軍が大島に上陸し、幕府方との戦闘を開始。写真は長州軍の本陣となった屋代(やしろ)の西蓮寺
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

四境の役大島口戦跡碑の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

6月16日、長州軍が幕府方に清水峠・笛吹峠・源明峠などで勝利し、17日には久賀で勝利。幕府方は撤退した。写真は源明山に幕長戦争100年の際に建立された「四境の役大島口戦跡碑」
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。


  • ※1 長州の本藩。幕末、城を萩から山口へ移鎮しますが、きらめーるでは萩藩として表記します。なお、長州藩とも呼ばれます。本文※1へ戻る
  • ※2 桂小五郎(かつら こごろう)の名でも知られる。慶応元(1865)年9月から木戸姓。本文※2へ戻る
  • ※3 孝允から親しかった対馬藩士・大島友之允(おおしま とものじょう)に宛てた慶応元(1865)年7月18日付けの手紙。『木戸孝允文書』2に収録。なお、意訳しています。本文※3へ戻る
  • ※4 長崎を拠点に活動していた貿易商。本文※4へ戻る
  • ※5 英語の原文が「Nagato」。萩藩あるいは萩藩主を指す。本文※5へ戻る
  • ※6 1865年8月4日(日本の当時の旧暦では、慶応元年6月13日)付けのロンドンの日刊紙。田口由香「明治維新史研究におけるイギリス新聞の活用-British Newspapers データベース—」『山口県史研究』21 2013による。本文※6へ戻る
  • ※7 正義にあらざる勅命は勅命ではない、という意味。本文※7へ戻る
  • ※8 幕府は自ら長州処分を行おうとして将軍・徳川家茂は江戸を発ち、大坂城に入っていた。本文※8へ戻る
【参考文献】
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』2004
末松謙澄『修訂 防長回天史』2009
田口由香「幕長戦争における木戸孝允の政治構想」『広島大学大学院教育学研究科紀要』51 2002
田口由香「幕長戦争の政治的影響-大島口を視点として-」『大島商船高等専門学校紀要』38 2005
野口武彦『長州戦争』2006
広島市未来都市創造財団広島城『長州戦争と広島』2013
三宅紹宣『幕長戦争』2013
三宅紹宣「幕長戦争における高杉晋作の幕府軍艦奇襲の背景」『山口県地方史研究』110 2013
山口県編『山口県史 史料編 幕末維新』4 2010
山口県編『山口県史 史料編 幕末維新』6 2001 など
おもしろ山口学バックナンバー

ページの先頭へ戻る



ページの先頭へ