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2016年6月24日号 vol.314
おもしろ山口学/「迎賓館」を造った奇兵隊出身の“宮廷建築家”片山東熊

写真:迎賓館赤坂離宮の正面玄関。
【画像】出典:内閣府ホームページ 迎賓館赤坂離宮写真集 正面玄関(http://www8.cao.go.jp/geihinkan/img/akasaka/big/bgei09-05.html)、
内閣府ホームページ 迎賓館赤坂離宮写真集 正面玄関(http://www8.cao.go.jp/geihinkan/img/akasaka/big/bgei09-05.html)を加工して作成

今春から通年公開(※1)が始まった迎賓館赤坂離宮。その設計者・片山東熊を紹介します。

東京赤坂にある「迎賓館赤坂離宮」。今は国賓の方などを接遇する国の施設ですが、本来は後の大正天皇が皇太子(東宮)だった時に東宮御所として造られたものでした。

その設計者・片山東熊(かたやま とうくま)は幕末、萩で生まれました。10代前半の少年の時、自ら志願して「奇兵隊(※2)」に入隊。そこでの縁が、その後、東熊の建築家としての活躍を後押ししてくれることになります。

明治維新後、東熊は働きながら英語を学び、明治6(1873)年、工部寮(現在の東京大学工学部)に入学します。工部寮とは、日本人の手で工業を発達させるため、明治政府によって設置された人材養成機関。やがて来日したイギリス人建築家J・コンドル(※3)の厳しい指導の下、東熊は西洋建築を学びます。そして明治12(1879)年、工部大学校(工部寮から改称)造家学科1期生として、東熊ら4人(※4)が卒業。彼らは良きライバルとなって日本の近代建築の礎を築いていきました。

栄光と、意外なお言葉…。そして完成から100年後に「国宝」へ

卒業後、東熊は工部省(※5)に入り、有栖川宮(ありすがわのみや)邸の建築に関わります。折しも有栖川宮のロシア皇太子戴冠式への出席が決まり、東熊は随行して欧州各国の宮殿を視察することに。本場の宮殿を目の当たりにし、幕末生まれの東熊は大きな衝撃を受けたと考えられます。

やがて東熊は皇居御造営局に勤めます。それには奇兵隊時代の上官で、政府の有力者となっていた山県有朋(やまがた ありとも)の推薦があったのではといわれています(※6)。明治31(1898)年、皇太子のご成婚を前に東宮御所御造営局(※7)が設けられると、東熊は造営工事を総括する技監に抜てきされます。工事は翌年起工され、10カ年をかけて明治42(1909)年に完成。東熊の設計・総括の下、当時一流の美術家・工芸家、職人たちが腕を振るい、自動温度調節装置付き温風暖房装置など最新の技術を導入した、日本初の本格的で華麗な西洋風宮殿が誕生しました。

ところが、完成した宮殿について明治天皇はこう漏らされたといいます。「ぜいたくだ」と(※8)。数度の出張を通じて西欧の宮殿を視察し、完成に心血を注いできた東熊の胸中はいかばかりだったことか。その後も東熊は幾つもの建築に取り組み、大正6(1917)年に亡くなります(※9)。慎重で厳正な性格で、部下からも敬愛された人だったといいます。

それから100年を経て、旧東宮御所が再評価される時がやってきます。「明治期の建築界において、日本人建築家の設計による近代洋風建築の到達点(※10)」を示し、「文化的意義の特に深いもの(※11)」として平成21(2009)年、明治以降の建築物として初めての国宝に指定されたのです。幕末の少年兵から宮廷建築家へ。その歩みは、列強と肩を並べる日本をつくるべく、志を胸にまい進し続けた、先人たちの姿を浮かび上がらせてくれます。

迎賓館赤坂離宮 花鳥の間の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

迎賓館赤坂離宮 花鳥の間
【画像】出典:内閣府ホームページ 迎賓館赤坂離宮写真集 花鳥の間(http://www8.cao.go.jp/geihinkan/img/akasaka/big/bgei09-11.html)、
内閣府ホームページ 迎賓館赤坂離宮写真集 花鳥の間(http://www8.cao.go.jp/geihinkan/img/akasaka/big/bgei09-11.html)を加工して作成
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迎賓館赤坂離宮 羽衣の間の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

迎賓館赤坂離宮 羽衣の間
【画像】出典:内閣府ホームページ 迎賓館赤坂離宮写真集 羽衣の間(http://www8.cao.go.jp/geihinkan/img/akasaka/big/bgei09-15.html)、
内閣府ホームページ 迎賓館赤坂離宮写真集 羽衣の間(http://www8.cao.go.jp/geihinkan/img/akasaka/big/bgei09-15.html)を加工して作成
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「亀山銅像全景」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

明治33(1900)年、亀山公園(山口市)に幕末の萩藩主らの銅像が建設された。その製作に東熊は関わった。写真「亀山銅像全景」は往時のもので山口県文書館蔵。なお、現在は再建された毛利敬親(もうり たかちか)銅像のみがある
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  • ※1 詳細は内閣府ホームページの「迎賓館赤坂離宮の一般公開について」をご覧ください。本文※1へ戻る
  • ※2 萩藩から起用された高杉晋作(たかすぎ しんさく)の発案で、文久3(1863)年、身分を問わない有志によって創設された、当時としては画期的な軍隊本文※2へ戻る
  • ※3 明治政府に招かれ、明治10年(1877)年に来日。代表作は上野博物館、鹿鳴館、ニコライ堂など。本文※3へ戻る
  • ※4 他に東京駅を設計した辰野金吾(たつの きんご)など。本文※4へ戻る
  • ※5 明治政府で官営事業を担当した殖産興業政策の中枢管理機関。本文※5へ戻る
  • ※6 東熊は学生時代も有朋と親しく、卒業前や明治24(1891)年にも有朋の邸宅を設計。東熊の長兄も奇兵隊出身で有朋から信任されていた。なお、長兄は前号の松永周甫(まつなが しゅうほ)の碑の建立に深く関わった人物。本文※6へ戻る
  • ※7 局長は長州出身の杉孫七郎(すぎ まごしちろう)。萩藩士として初めて西欧へ渡った人物。明治維新後は主に宮中関係の役職に就き、大正天皇が皇太子の時の書道の先生も務めた。本文※7へ戻る
  • ※8 小野木重勝『日本の建築 明治大正昭和 2 様式の礎』による。また、間もなく明治が終わり、皇太子は天皇となって皇居に入られたため、ここに住まわれることはなかった。本文※8へ戻る
  • ※9 東熊は表慶館(東京国立博物館)、奈良博物館(奈良国立博物館)、京都博物館(京都国立博物館)なども設計している。本文※9へ戻る
  • ※10 文化庁文化財部監修『月刊 文化財』による。本文※10へ戻る
  • ※11 同上。本文※11へ戻る
【参考文献】
一坂太郎編『定本奇兵隊日記・人名索引』1999
一坂太郎『防長の隠れた「偉人」たち』2002
小野木重勝『日本の建築 明治大正昭和 2 様式の礎』1979
塩田昌弘「片山東熊とその時代」2003
田村哲夫校訂『定本奇兵隊日記』1998
日本建築学会『建築雑誌』第31輯372号 1917
文化庁文化財部監修『月刊 文化財』2009
長沼守敬「毛利家の銅像」(山口県文書館蔵)など
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