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2016年5月27日号 vol.313
おもしろ山口学/シーボルトと長州人

写真「松永周甫肖像画」の一部(山口県立山口博物館蔵)と、鋳銭司の西南方にそびえる陶ケ岳(すえがたけ)

後編 シーボルトも関心を寄せた本草学者・山口県砂防工事の先駆者 松永周甫

平成28(2016)年はシーボルト没後150年。シーボルトゆかりの長州人を紹介します。

山口県文書館「アーカイブズウィーク」
文書記録の重要性などをPRする目的で行われるイベントで、今年は病気・医療・健康をテーマに行います。松永周甫へのシーボルトの手紙(当時訳されたもの)をはじめ所蔵文書の展示やギャラリートーク、周甫などについての歴史小話のほか、歴史探究講座、書庫見学ツアーなどが行われます。
期間:6月1日(水曜日)から5日(日曜日)まで。日によって内容は異なります。

植物にも詳しい博物学者だったシーボルト(※1)。文政12(1829)年に国外追放となりますが、安政6(1859)年に再来日。そのとき関心を寄せた長州人に、医師で本草学者(※2)の松永周甫(まつなが しゅうほ)(※3)がいます。

周甫は幼時を萩で過ごし、医学を長崎などで学んだ後、名田島(なたじま。現在の山口市)に住むようになります。嘉永3(1850)年、京都の本草学者に学び、四国や近畿で植物を採集。同年、帰ってくると、鋳銭司南原(すぜんじみなんばら。現在の山口市)の荒れ地を薬草園にすることを思い立ちます。

南原は当時、大雨のたびに地肌の露出した山々から土砂が流れ込む広大な砂原の地で、藩によって砂防の堤が築かれたものの、川の下流域に住む農民たちは土砂災害に苦しみ続けていました。その南原で、周甫は自費で砂防に着手。まずは土砂の流出を防ぐため、木のない山に木を育てることが必要と考え、俵に肥えた土や草木の種などを入れて山の砂地に次々と設置していきました。また、麓では砂原を開墾し、数多くの薬草を植え付けます。嘉永6(1853)年には500人余りの加勢を得ますが、作業現場で人が多すぎて声が届かず、太鼓をたたいて合図することに。するとその騒ぎが訴えられ、藩から1日10人とするよう注意されます。それを機に、友や親族からは作業を止めるよう忠告されますが周甫は拒み(※4)、医業の傍ら、砂防や薬草作りなどに挑み続けます。そして安政4(1857)年、藩主に薬草の標本をお目にかけ、広大な薬草園造りの計画(※5)を正式に許されたのでした。

意外な内容だったシーボルトの礼状

そんな周甫とシーボルトとの縁は万延元(1860)年のことです。その経緯は周甫が藩へ提出した文書に記されています(※6)。「シーボルトと申す者より使いが来て、草木も生えなかった砂地をどのようにして薬草が育つまでにしたのか教えてほしいとのこと。使いの者が草木の押葉百枚を持ち帰ったところ、シーボルトから手紙とお礼の品(※7)が届きました。しかし、私は西洋の言葉に通じておらず手紙の内容が分かりません。訳していただけるとありがたく存じます」。そして藩が訳したシーボルトからの手紙は次のようなものでした。「植物を受け取りました。多くは腐ってしまっていましたが、あなたへの感謝の印として小刀を贈ります。植物を贈るときはよく乾燥させ、山の上あるいは林に茂る、なるべく珍しいものを選んでください。尊敬と親しみをあなたへ(※8)」。手紙は少しばかり残念な内容でしたが、それでも草木も生えなかった砂地を薬草園に変えた周甫の評判がシーボルトにまで届いていたことを教えてくれます。

明治維新後、周甫は天皇から褒賞(ほうしょう)され、71歳で世を去ります。そして今、周甫の行為は「山口県砂防工事の初め」といわれ、かつての砂原の地は緑豊かな山口県セミナーパークなど(※9)となって多くの人々に親しまれています。

陶村南原砂留凡五ヶ年限ニテ仕調略図の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

陶村南原砂留凡五ヶ年限ニテ仕調略図」(山口県文書館蔵)。周甫が安政4年に作成した計画図と思われる。図の下のピンク色が陶ケ岳などの山麓
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「松永周甫薬園跡と遺存植物」の説明板の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「松永周甫薬園跡と遺存植物」の説明板。ロッククライマーなどに親しまれている陶ケ岳登山道入口にある
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松永周甫顕彰碑の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「松永周甫顕彰碑」。篆額(てんがく。題字)は品川弥二郎(しながわ やじろう)。陶ケ岳登山道入口近く、変電所の北の山麓にある
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  • ※1 長崎のオランダ商館の医師。ドイツ人。帰国の際、国禁の地図などの持ち出しが発覚して国外追放となった。本文※1へ戻る
  • ※2 薬用とする植物・動物・鉱物の形態・産地・効能などの研究者。なお、本草学は明治時代になると植物学、生薬学などに受け継がれた。本文※2へ戻る
  • ※3 「しゅうすけ」とした文献もある。本文※3へ戻る
  • ※4 「これまで藩が幾度も手を入れたが、皆、破損した。すぐやめるべきだ」と忠告されたが、周甫は「不毛の廃地があっては国民の用を欠いてしまう。そのため今から地味の改良と肥料の方法を試しておきたい」などと答えたという。本文※4へ戻る
  • ※5 南北300間(約560メートル)・東西260間(470メートル)。本文※5へ戻る
  • ※6 「申上候事(シーボルトより薬園尋ねの儀)」(山口県文書館蔵)。本文※6へ戻る
  • ※7 この手紙の原文では鍼(はり)となっているが、後述の手紙の原文では小刀となっており、外科用のメスのことと思われる。なお、本文では要約・意訳しています。本文※7へ戻る
  • ※8 「シーボルト書翰和解」(山口県文書館蔵)。なお、本文では要約・意訳しています。本文※8へ戻る
  • ※9 山口県セミナーパークは県・市町職員や県民などの研修・学習・交流を促進するための県の施設。山口県立山口南総合支援学校などがある地も周甫が開墾した砂原だった。本文※9へ戻る
【参考文献】
内田伸『私たちの郷土鋳銭司村』1954
砂防広報センター『碑文が語る土砂災害との闘いの歴史-砂防法施行百年記念-』1998
田中助一『防長医学史』上巻 1984復刻
「南原砂防開墾ノ履歴・山口県農談会記事綴」(山口県文書館蔵)
「南原砂留薬園開立許可一件継立」(山口県文書館蔵)
「松永周甫関係文書(写)」(山口県文書館蔵)
松永祥甫卒寿記念事業実行委員会『松永祥甫卒寿記念写真集 世紀を超えて—感謝と奉仕—』2001など

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