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2016年4月22日号 vol.312
おもしろ山口学/シーボルトと長州人

写真:「オランダ商館長御用船下関入湊図」(下関市立歴史博物館蔵)。オランダ商館長たちの船が佐甲家に寄港しようとしているところを描いた絵(部分)

前編 鳴滝塾の塾長・岡研介と長州の豪商たち

平成28(2016)年はシーボルト没後150年。シーボルトゆかりの長州人を紹介します。

山口県文書館「アーカイブズウィーク」
アーカイブズウィークは文書記録の重要性と保存利用をPRする目的で行われるイベントで、今年は病気・医療・健康がテーマです。岡研介関連資料やシーボルトの手紙など所蔵文書の展示やギャラリートーク、歴史探究講座、歴史小話、文書館書庫見学ツアーなどが行われます。
期間:6月1日(水曜日)から5日(日曜日)まで。日によって内容は異なります。

江戸時代、長崎出島のオランダ商館の医師として来日し、日本の医学や自然科学などに多大な影響を与えたシーボルト。交流した長州人は医師や商人などさまざまで、中でもシーボルトの私塾「鳴滝塾」で最初の塾長(※1)を務めたほど優秀だったのが、医師の岡研介(おか けんかい)でした。

研介は寛政11(1799)年に平生村(現在の平生町)で生まれました。安芸(あき。現在の広島県)の蘭方医や豊後(ぶんご。現在の大分県)の儒学者(※2)などに学んだ後、シーボルトの評判を聞き、長崎へ。そして鳴滝塾で学びました。

共に学んだ塾生は研介について「シーボルトに面会する者は、皆、彼に通訳をしてもらった」といい、塾生で特に優れていたのは高野長英(たかの ちょうえい)(※3)と研介で、「文章会話は岡の方が優れていた」と証言しています。シーボルトを助けて日本の語学に関する書物を編さんしたり、萩の豪商・熊谷(くまや)家(※4)から頼まれて蘭書(※5)やオランダの珍しい品の購入を仲介したりしたほか、後には生理学などを紹介した蘭書を日本で初めて翻訳するなど、日本と西洋の橋渡し役として大いに貢献しました。

「研介の名を伝えよ」

赤間関(あかまがせき。現在の下関市)の豪商・伊藤(いとう)家と佐甲(さこう)家(※6)もシーボルトと交流しています。文政9(1826)年、シーボルトはオランダ商館長に随行して船で江戸へ行く途中、佐甲家に宿泊。伊藤家から晩餐(ばんさん)に招かれ、「金モールのついた赤いビロードの服と金糸で刺繍(ししゅう)したチョッキを着、半ズボンと絹の靴下とスリッパをはき帽子」をかぶった当主に歓待された、と記録に残しています(※7)。赤間関では、そうしたオランダに好意的だった豪商の支援を受けて、シーボルトの塾生たちが蘭方医として診療に従事し、中には百人を超える門人を持つ者もいたといいます。海峡のまちは異国に関心を持つ人々が集まる地でした。

文政11(1828)年に起きたシーボルト事件(※8)は、彼らにも波紋を及ぼしました。佐甲家の当主は関門海峡を案内した罪で一年間の蟄居(ちっきょ)処分に。研介は赤間関で蘭方医として患者を診察し、蘭医学の塾も開いて多くの門人を教えていましたが、事件の余波で長崎へ呼び出され、取り調べられることに。その結果は、注意を受けただけで済んだものの、事件は心の重荷となったのか、大坂に出た後、病み、帰郷して数え年41歳で亡くなりました。

その名が再び世に出たのは明治維新後のこと。長州出身の評論家が研介のことを知って「蘭学の大家にして、埋没して、史書に現れず」と惜しみ、鳴滝塾の元塾生に証言を聞くなどして調べ、著書に人物評論を載せたのです(※9)。そこには後世へ思いを託すかのようにこう記されていました。「研介の名を伝えよ」。

『常用方(写)』の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

『常用方(じょうようほう)(写)』(山口県文書館蔵)。研介が門人向けに書いた蘭薬処方書の写本。赤間関で門人に医学を教えていたことも分かる。原本は存在せず貴重
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岡研介の墓の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「真覚寺(しんかくじ)」にある研介の墓(平生町)。兄の泰安(たいあん)もシーボルトの高名な弟子で、高野長英と非常に親しかった
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熊谷美術館の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

熊谷美術館(萩市)。江戸期の貴重な「東蔵」で、熊谷五右衛門がシーボルトからもらったピアノやガラスの杯、収集したオランダの陶磁器を現在展示中
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  • ※1 シーボルトの『江戸参府紀行』には「美馬順三(みま じゅんぞう)と岡研介とは此(この)塾舎の最初の教師となれり」とある。本文※1へ戻る
  • ※2 広瀬淡窓(ひろせ たんそう)。研介は淡窓門下の三奇才といわれ、淡窓は弟子の研介に治療してもらうほど信頼を寄せた。本文※2へ戻る
  • ※3 蘭学者・医師。天保9(1838)年、『夢物語』を書いて幕府を批判。蛮社の獄で投獄されるが、脱獄。嘉永3(1850)年、捕吏に襲われ、自殺。本文※3へ戻る
  • ※4 萩藩の御用商人。熊谷五右衛門(ごえもん)は研介の学資を援助。本文※4へ戻る
  • ※5 フランス人ショメールによる百科事典など。事典は萩藩に貸与され、洋学振興に活用された。本文※5へ戻る
  • ※6 両家は本陣(諸大名などが休泊する公的宿泊機関)なども務めた赤間関の有力者。オランダ商館長などが宿泊する「阿蘭陀(オランダ)宿」でもあった。本文※6へ戻る
  • ※7 シーボルトの『江戸参府紀行』による。本文※7へ戻る
  • ※8 シーボルトが帰国の際、国禁の地図などの持出しが発覚し、シーボルトは国外追放となり、関係する多くの蘭学者が処罰された事件。本文※8へ戻る
  • ※9 横山健堂『人物研究と史論』。大正2(1913)年刊行。なお、証言した元塾生は、医師で博物学者、日本で最初の理学博士となった伊藤圭介(いとう けいすけ)。本文※9へ戻る
【参考文献】
亀田一邦「下関開業時代における岡研介の事績及び寄寓背景に関する考察-本州西端の海港に見る文政末蘭医学の展開-」『日本医史学雑誌』第56巻第4号 2010
呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』2・3 1968
シーボルト(斉藤信訳)『江戸参府紀行』 1967
下関市『下関市史 藩制‐市政施行』 2009
田中助一『熊谷五右衛門義比とシーボルト』 1970
田中助一『防長医学史』上巻 1984復刻
田中助一「蘭学者岡研介および高野長英伝の補遺」『蘭学資料研究会研究報告』第152号 1963
平生町『平生町史』1978
三宅紹宣「蘭医学者岡研介の生涯とその思想」『山口県地方史研究』第29号 1973
横山健堂『人物研究と史論』 1913 など
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