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2016年3月25日号 vol.311
おもしろ山口学/萩藩御用達筆頭 萩の豪商「熊谷家」

写真:シーボルトのピアノ((公財)熊谷美術館蔵)。

後編 萩藩を支えた熊谷家の気風と、シーボルトのピアノ

熊谷家当主の逸話やシーボルトから贈られたピアノを通して、幕末維新へと続く、長州人のスピリットを紹介します。

熊谷美術館(萩市)
熊谷家歴代当主が収集した美術品や文書類などの保存・公開を目的に昭和40(1965)年に開館。シーボルトのピアノなどを展示。主屋・離れ座敷・宝蔵・本蔵は国の重要文化財に指定されています。
期間:月曜日・水曜日・金曜日は休館(ただし、祝祭日は開館)。なお、4月5日(火曜日)から8月14日(日曜日)まで「特別展 表千家全国大会記念 熊谷家の茶道具」を開催。

江戸時代中期の1700年代、財政難の萩藩を資金面で支え、一代で豪商となった萩の熊谷五右衛門芳充(くまや ごえもん よしみつ)とは、どんな人物だったのか。それを伝える次のような逸話があります(※1)

芳充が大坂で大金を調達して帰ろうとしたときのこと。海賊が出没するので、すぐには船を出さずにいたところ、ある夜、嵐に。芳充は宿の主人を呼び、「妻子を持たず、後の憂いがなく、死を恐れない船人を手配してほしい」と頼みます。宿の主人から理由を問われると、「こんな夜なら海賊を避けられる」と芳充。「しかし、嵐で命を失います」と止められ、芳充は答えます。「難破して荷が岸に打ち上げられたなら漁民が荷を拾う。悪人に荷を取られるより、その方がいい」。そして嵐の海へ繰り出した船は無事、長州に着いた…と。その逸話は、芳充が才知と大胆さを併せ持つ人だったことを教えてくれます。

熊谷家に現存する「日本最古のピアノ」

江戸時代後期の4代目当主・五右衛門義比(ごえもん よしかず)(※2)」は行動力と旺盛な好奇心を持った人でした。御用商人として藩の財政を支え、家族も共に大坂御用達「加島屋(かじまや)」と同じ処遇とする栄誉を藩から一時与えられます。また、西洋の書籍や薬・器物を収集する一方、藩や知人へも貸与・提供し、蘭学者の勉学も支援。晩年には村田清風(むらた せいふう)(※3)の藩政改革にも協力しました。

そんな義比が文政8(1825)年、長崎へ行ってオランダ商館のドイツ人医師シーボルトの診察を受け、しばらく滞在したことがあります。義比は翌年にも、下関に寄ったシーボルトに治療の礼を言いに赴き、そのことはシーボルトによる『江戸参府紀行』(※4)に記されています。

ところが文政11(1828)年、シーボルトが帰国の際、国外持ち出しを禁じられていた日本沿海実測図などを荷に入れていたことが発覚。シーボルトが国外追放となり、多くの蘭学者が処罰された、あのシーボルト事件が起きます。その事件のまさに少し前、シーボルトは義比に「ポルトピアン」という愛用の楽器を贈っていました(※5)。楽器は事件発覚後、下関に「蘭之琴(オランダの琴)」として届き、時局柄、藩の出先機関で調べられますが、無事、萩へ。以後、熊谷家ではシーボルトゆかりの品を大事に守っていきました。

昭和30(1955)年、萩の歴史研究家の熱意が機となり、古びた豪華な金唐革(きんからかわ)(※6)に覆われ、蔵の中で眠っていたポルトピアンが日本最古のピアノであることが判明します。長方形のテーブル型の本体に6本の脚が付いた、その楽器は、今では製造されなくなったイギリス製のスクエアピアノ(※7)だと分かったのです。そして内部には、オランダ語で次のように記されていました。「我が友クマヤへ別れのために ドクトル・フォン・シーボルト 1828」…。

幕末維新期を迎え、新たな日本をつくる人々を次々と輩出していった長州。その素地には、知恵と度胸で大胆に任務を遂げ、積極的に異国の人と交流し、文化も取り入れる「進取の気風」に満ちた熊谷家のような人々がいたことも影響していたのかもしれません。

熊谷美術館外観の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「熊谷美術館」外観。シーボルトから贈られた切子のグラス、オランダ商館長から贈られたコーヒー茶碗なども現存する
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熊谷家住宅の中庭から見た写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

国指定重要文化財「熊谷家住宅」の中庭から見た写真。樹齢300年の松と樹齢600年のソテツがそびえ立つ
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ピアノ内部に記されたシーボルトのサイン部分の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

ピアノ内部に記されたシーボルトのサイン部分((公財)熊谷美術館蔵)
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  • ※1 「昇雲軒様事蹟書」による。熊谷家本家9代熊谷五郎が芳充について書いた原稿を後に写本したもの。本文※1へ戻る
  • ※2 ホーヘンというオランダ名も持つ。なお、実兄・熊谷五郎左衛門芳淑(五八)は、日本で初めて生理学・衛生学を紹介した「蘭説養生録」をシーボルトの弟子・岡研介(おか けんかい)と高野長英(たかの ちょうえい)が訳した際、筆記を担当したとされる(『防長医学史』、『高野長英全集』第1巻による)。本文※2へ戻る
  • ※3 洋学・西洋兵学を推進し、吉田松陰(よしだ しょういん)などの志士に影響を与えた。本文※3へ戻る
  • ※4 「友人の中に昨年出島で私の診察をうけ、治療のため長崎にしばらく滞在していた長門(国)出身の熊谷(kamaja)というたいへん金持の商人の兄がいた」などと記されている。本文※4へ戻る
  • ※5 現在の平生町生まれで、シーボルトの塾「鳴滝塾」で塾長を務めた岡研介が世話した。本文※5へ戻る
  • ※6 金泥(きんでい)で模様を付けた薄いなめし革。本文※6へ戻る
  • ※7 19世紀末まで家庭用として普及。ドイツで発祥し、イギリスへ技術が渡った。本文※7へ戻る
【参考文献】
ジーボルト(斎藤信訳)『江戸参府紀行』1967
シーボルト(斎藤信訳)『シーボルト参府旅行中の日記』1983
田中助一『熊谷五右衛門義比とシーボルト』1970
田中助一「熊谷五右衛門義比の文化愛好者としての事蹟」『山口県地方史研究』第4号 1960
田中助一『防長医学史 上巻』1951
田中誠二「萩藩の財政と御用達商人」『やまぐち学の構築』9号 2013
福尾猛市郎『熊谷五右衛門』1960など

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