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2016年3月11日号 vol.310
おもしろ山口学/萩藩御用達筆頭 萩の豪商「熊谷家」

写真:「熊谷家住宅」の主屋正面と、加島屋から贈られた宝蔵前の灯籠

前編 大坂の豪商「加島屋」との絆を物語る灯籠と家紋

NHK連続テレビ小説「あさが来た」の加野屋のモデルとなった大坂の豪商「加島屋(かじまや)」と萩の豪商「熊谷家(くまやけ)」が江戸時代、共に萩藩を支え、密接な関係だったことを紹介します。

熊谷美術館(萩市)
熊谷家歴代当主が収集した美術品や文書類などの保存・公開を目的に昭和40(1965)年に開館。主屋・離れ座敷・宝蔵・本蔵は国の重要文化財に指定されています。
期間:3月11日(金曜日)まで冬季休館。3月12日(土曜日)から開館。月曜日・水曜日・金曜日は休館(ただし、祝祭日は開館)。なお、4月5日(火曜日)から8月14日(日曜日)まで「表千家全国大会記念特別展 熊谷家の茶道具」を開催。

参勤交代の膨大な経費や、災害などによる米不足…。江戸時代、萩藩は慢性的な財政難に苦しみました。支出超過は主に大坂の豪商から借用し、その返済のため、藩内から多くの富が流出。そこで萩藩が収入を藩内に少しでも留めるため、藩内の有力町人の育成を図ろうとして着目したのが、萩の商人・熊谷五右衛門芳充(ごえもん よしみつ)でした。

宝暦4(1754)年、芳充は藩の御所帯方(藩府の経費出納をつかさどる役所)から初めて銀の調達を仰せ付けられます。芳充は藩内・支藩を駆け回って調達。以後、御所帯方の御用達商人(※1)として、藩が必要とする米や銀を調達し、藩からは秋の年貢米を担保とした支払いを受けるとともに短期の貸し借りによる高い利子を得て「大名貸」として急成長していきます。また、藩の役人に同行し、大坂の豪商との交渉に関わり、大坂を代表する豪商「加島屋(※2)」と密接な関係を築いていきました。

明和元(1764)年、加島屋の5代目当主・広岡久右衛門正房(ひろおか きゅうえもん まさふさ)が萩に来ることになります。芳充は藩から、滞在中の接待役を命じられ、持ち家を改造し、建具や道具も新調。丁重なもてなしに感激した正房からは、石灯籠一対と、広岡家を象徴する家紋まで贈られ、両家は兄弟の契りを結びます。

芳充は翌年、藩から、大坂へ送るべき一万俵の米が不足しており、「内密に大坂へ行って買い集めるよう」申し渡されます。その難題を私人(公的な立場ではない個人)として加島屋などに相談したところ、一万俵の米の引き換えに必要な倍の銀を借用することができ、使命を立派に果たします。こうして両家は、この後も藩を支えていきました。

幕末・維新の荒波を乗り越えて

それから時を経た幕末、熊谷家は萩藩や志士の尊王攘夷運動を支えていきます。

しかし、元治元(1864)年、萩藩は禁門の変によって朝敵とされ、藩の大坂蔵屋敷は幕府に没収・解体。そのことは大坂蔵屋敷留守居格(※3)にまでなっていた加島屋に、藩からの返済が途絶える一大事をもたらしました。さらに加島屋は萩(山口)藩への軍資提供を新選組から疑われ、尋問を受けるなど、苦境に陥ります。

3年後、加島屋8代目当主・久右衛門正饒(まさあつ)(※4)は、ひそかに山口へやってきます。藩の関係者と話し合い、長州の今後に賭けたのか、融資継続を決断(※5)。そしてまさに、その滞在中、京都では大政奉還が行われ、時代は大きく変わろうとしていました。

維新の世を迎え、萩(山口)藩だけでなく、諸藩が膨大な債務整理に苦しむことになります。明治6(1873)年、政府は天保14(1843)年以前の諸藩への債権を無効にするといった、大名貸にとってあまりにもむごい処分を下します。それは萩随一の御用商人・熊谷家にとって債権の95パーセント(※6)もの帳消しを意味しました。その後、加島屋は時代に応じて銀行などに業態を変え、熊谷家も塩田経営、ナツミカン農園の経営などを経て先祖代々の家を守り抜きます。

そして今、国の重要文化財となった熊谷家住宅の宝蔵の前には加島屋から贈られた灯籠が現存し、仰ぎ見る棟の上には加島屋から贈られた家紋を入れた鬼瓦があり、萩藩を共に支えた両家の絆を物語り続けています。

中陰蔦の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

加島屋から贈られた家紋、ツタの縁を白抜きにした「中陰蔦(なかかげづた)」。現在も熊谷家・加島屋、両家の子孫に受け継がれている
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家紋が入った鬼瓦の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

熊谷家住宅の屋根に掲げられた、中陰蔦の家紋が入った鬼瓦
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「熊谷家住宅」の離れ座敷と主屋の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

国指定重要文化財「熊谷家住宅」の離れ座敷(手前)と主屋(奥)。左奥には、加島屋から贈られた灯籠が見える
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  • ※1 参勤交代などの当座資金の調達のほか、藩札を発行する藩の役所のための銀の調達、困窮する家臣の借銀を肩代わりすることなども任務だった。本文※1へ戻る
  • ※2 藩が大量の米や特産物を売却して藩財政を成り立たせるには、物資が集積する天下の台所・大坂の豪商とのつながりは必須だった。また、大坂の豪商への借銀は長期の年賦借りが多かった。本文※2へ戻る
  • ※3 明和7(1770)年に任じられた。藩の役人である「留守居役」と同格の特別な処遇。本文※3へ戻る
  • ※4 正饒の次男と結婚したのが、女性実業家として活躍した広岡浅子(あさこ)。本文※4へ戻る
  • ※5 明治元(1868)年11月、加島屋へ藩が債務返済を再開するに当たり、それまでの感謝などの印として、さまざまな進物が藩主・毛利敬親(もうり たかちか)から届けられた。その一つ「黄金茶碗」は現在、寧楽(ねいらく)美術館(奈良市)が所蔵。本文※5へ戻る
  • ※6 帳消し分は推計9万円を超える(田中誠二「萩藩の財政と御用達商人」による)。なお、おもしろ山口学の試算として、現在のお金に換算すると約10億円に相当するのではと推測される。本文※6へ戻る
【参考文献】
田中誠二「萩藩の財政と御用達商人」『やまぐち学の構築』9号2013
大同生命保険株式会社 特設ウェブサイト 「大同生命の源流 加島屋と広岡浅子」
時山弥八『増補訂正もりのしげり』2014
野高宏之「加島屋久右衛門と黄金茶碗」『大阪の歴史』(大阪市史編纂所編)2006
萩市『萩市史1』1983
福尾猛市郎『熊谷五右衛門』1960
山口県史編さん室『山口県史だより』29号 2012
山口県『山口県史 史料編 近世7』2014など
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