ここから本文

2016年2月26日号 vol.309
おもしろ山口学/プリンセス・モウリ

写真:篤志看護婦人会の制服を着用した晩年の安子(毛利博物館蔵)とシカゴ万博のプリンセス・モウリへの表彰状(部分)(山口県文書館蔵)

プリンセス・モウリ

女性の社会参画の先駆けとなった元・大名家の女性「毛利安子」を紹介します。

毛利博物館(防府市)
企画展「お雛さま」の期間中、日本に洋装が取り入れられた初期(明治10年代-20年代)の様子を物語る毛利安子の貴重なドレスを展示。安子が皇后の洋装奨励に積極的に応じたことを知ることができます。
期間:4月10日(日曜日)まで

江戸時代は藩邸の奥を取り仕切り、あまり人前に出ることはなかった大名家の女性たち。しかし、明治維新後は一転して、公の場へ。女性組織のリーダーを務めるなど、日本の近代化の一翼を担いました。

幕末の萩藩主の養女で、維新期の山口藩知事の正室・毛利安子(もうり やすこ)もそうした役割を担った一人で、女子教育をはじめ、さまざまな社会事業に活発に関わった人でした。側で仕えた人の証言によれば、無邪気で聡明、意志の強い人だったといいます。幕末、藩の本拠が萩から山口に移ると、住まいの五十鈴(いすず)御殿から山口御屋形へ毎日通う夫・元徳(もとのり)のために自ら弁当を作り、また、生まれたばかりの我が子の入浴も自らの手で行ったという、大名家の女性としては型破りな姿を伝える証言も残ります(※1)

廃藩置県後、元徳・安子夫妻は東京へ。安子はさまざまな社会活動に関わっていきます。明治20(1887)年、日本赤十字社篤志看護婦人会(※2)の設立に関わり、看護も学び、後に副会長に就任。その後、日露戦争に出征した軍人の家族の生活を支えるための団体も設立しました。

また、明治23(1890)年には大日本婦人教育会(※3)の会長となって女子教育を支援します。明治34(1901)年、山口出身の成瀬仁蔵(なるせ じんぞう)が創立した日本女子大学校(現在の日本女子大学)の開校式には、大日本婦人教育会長として出席し、女子大学は尚早とする世論が大勢だったころを振り返り、「発起者諸氏が熱心な希望を持ち、人心をよく動かしていったからこそ」といった祝辞を述べ、「我等女性の身として」開校を喜んでいます(※4)。さらに、安子は山口県内の女子教育の振興のため、寄付も行っています(※5)

日本の女性の代表として名を残したシカゴ万博

安子は日本の女性として海外にもその名を残しています。アメリカで明治26(1893)年、コロンブスによる新大陸到達400周年を記念した大規模な「シカゴ万博」が開催されます。その万博は、従来の万博では活躍の場がなかった女性が、計画から運営まで行う「婦人館(女性館)」が造られたことが大きな特徴の一つでした。近代国家の仲間入りを目指す日本政府は、皇后の賛意を受けて、婦人館に出展するための組織「日本婦人委員会」の委員長に安子を任命しました。

日本婦人委員会は、婦人館に「日本婦人居間及(び)化粧ノ間」と名付けた、床の間のある部屋などを造り、琴や三味線、生け花、着物、化粧道具などを展示。それらは美術品としても優れていたようで、日本人女性の文化的なイメージ向上にもつながり、安子は博覧会事務局から「日本貴婦人の優美で典雅な生活状況をうかがい知ることができる」としてメダルと賞状を授与されました。今も残るメダルにはアルファベットで「プリンセス・モウリ」と刻まれています。

他にも多くの女性団体で代表を務め、それらの会合にはほとんど出て世話役を引き受けていたという安子。藩邸の奥から公の場へ、さらには世界へ。一人の元大名家の女性の生涯は、日本の近代化の一側面、女性の社会参画への道が開かれ始めた初期の様子を教えてくれます。

安子着用のドレスの写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

安子着用のドレス。生地の文様は日本的で、八重桜の模様が織り出されている(毛利博物館蔵)
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

メダルの写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

シカゴ万博事務局から「プリンセス・モウリ」へ授与されたメダル(山口県文書館蔵)。写真は裏面。当時まだ珍しかったアルミニウム製のケース(繊細な植物文様が刻まれている)に納められている
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

賞状の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

明治43(1910)年、ロンドンで行われた日英博覧会から安子へ授与された賞状(部分)(山口県文書館蔵)。「プリンセス・モウリ」と記されている。日英博覧会は、日本とイギリス両国民の親善と貿易の発展を目的として開催された
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。


  • ※1 東京の福田会(ふくでんかい)育児院が、福田会副総裁だった安子の死去(満82歳)を哀悼して特集した大正14(1925)年8月発行の機関紙『ふくでん』第255号による。本文※1へ戻る
  • ※2 当時は看護婦(現在の看護師)が非常に少なく、まずそのイメージ向上による人材養成を図るため、華族の女性たちによって設立。戦争などによる傷病者への救急法などを学んだ。本文※2へ戻る
  • ※3 婦人(女性)教育に関する研究・啓発団体。本文※3へ戻る
  • ※4 「開校式祝辞 大日本婦人教育会長 毛利安子」(日本女子大学成瀬記念館蔵)による。本文※4へ戻る
  • ※5 萩婦人会附属私立萩修善女学校開設への寄付など。また、毛利家は私立山口高等女学校に経済援助を行い、明治30年、同校は私立毛利高等女学校と改称(現在の山口県立山口中央高校)。本文※5へ戻る
【参考文献】
味岡京子「1893年シカゴ万国博覧会「女性館」への日本の出品-「女性の芸術」をめぐって」『人間文化論叢』9、2006
井関美清 編『常盤の佳気』1912
入江寿賀子「明治の仏教系婦人雑誌-二つの系譜-」『婦人雑誌の夜明け』1989
「閣龍世界博覧会之図」(毛利家文庫 山口県文書館蔵)
国会図書館公式ウエブサイト「博覧会 近代技術の展示場」
津曲裕次「石井筆子研究-『大日本婦人教育会雑誌』との関わり-」『純心人文研究』11、2005
日本女子大学編『日本女子大学学園事典』2001
日本赤十字社『日本赤十字社史稿』1911
「毛利元徳卿夫人安子履歴」(毛利家文庫 山口県文書館蔵)
「毛利安子履歴概略」 (毛利家文庫 山口県文書館蔵)
山本明史「日英同盟(日英博覧会絵ハガキ)」「閣龍(コロンブス)世界博覧会」『山口県文書館所蔵アーカイブズガイド-学校教育編-』
「臨時博覧会事務局報告」(梶山家文書 山口県文書館蔵)など

ページの先頭へ戻る



バックナンバー

記載されている情報(特にリンク)は発行時点のものです。このため、リンク先がない場合、あるいは更新されている場合等ありますので御了承ください。


ページの先頭へ戻る

ページの先頭へ