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2015年11月27日号 vol.304
おもしろ山口学/楫取素彦と二人の妻 寿と美和

写真:男爵楫取素彦肖像画(群馬県立歴史博物館蔵)。楫取寿写真、楫取美和写真(いずれも萩博物館蔵)

第7回 苦労人・素彦の経済感覚

倹約家だった素彦の素顔を紹介します。

明治20(1887)年、勲功によって男爵となった楫取素彦(かとり もとひこ)。その生い立ちを振り返ると、萩藩医・松島家の次男として生まれ、幼くして父を亡くし、母子4人での貧しい暮らしを経て、12歳のときに藩校・明倫館の儒官だった小田村家の養子に。その養父を19歳のときに亡くし、家督を相続。親友・吉田松陰の妹・寿(ひさ)と結婚後も、激動の時代の中で、たびたび命の危機にさらされるなど苦労の連続でした。

そうした中で素彦は、自分にいつ何があっても家族が生きていけるよう倹約を旨としました。藩内抗争で萩の野山獄へ投獄された際(※1)には、寿への手紙に、子ども時代を振り返り、「所帯ははなはだ貧乏で、とても習いものをするような状態ではなかった。母上は内職をして筆や墨を買ってくださった。私たちは不自由を忍び、学問に励んだ。だから今日があり、人並みに劣らぬようになれたのです」。さらに結婚後の苦労も振り返り、「建具・敷物・台所道具までもアリが餌を拾うようにして集めた汗の油ともいうもの」と書いています。貧乏に耐え、子どもたちを立派に育ててほしい…。妻子を心配する素彦の深い愛情が伝わってきます。

経済も激動した明治期。家族の暮らしを案じ、家計にも心配りした素彦

素彦は家を建てるのが好きな人でもありました。屋敷を設けた地は、萩中の倉、三隅村二条窪(にじょうくぼ。現在の長門市)、東京麹町、東京赤坂、防府三田尻(みたじり)など。時代が大きく変わっていく中、土地や家などの不動産こそ資産と考えたようです。

二条窪と萩では、当時人気が高まり始めたナツミカンも栽培し、販売。群馬へ転任後は、義兄(※2)などに畑の管理や果実の販売を依頼します。しかもナツミカンの需要の衰えや、輸出した場合の成功の可否など、消費者の嗜好や、社会の変化を機敏に把握。明治39(1906)年の義兄への手紙では「今後はナツミカンよりも杉・ヒノキを植林した方がいい」と提案。その理由として「電柱、電話柱の需要が年々増え、その植樹は肥料を施し、熱心に手入れしたときには立派な成木になる」と記しています。

また素彦は、東京には本邸のほかに別邸も建てています。その建築には予想以上にお金がかかり、義兄への手紙で「いまさらながら、ほぞをかんでいます」と自嘲しつつも、「場所柄ゆえ、いつ売っても損はしない」と書き送っています。一方、子や孫は素彦ほど倹約に熱心ではなかったようで「孫たちにいつも口やかましく倹約のことを申し聞かせている」と義兄に漏らした手紙も残ります。母の苦労が身に染み、出世後も生涯、家計を案じ続けた家族思いの素彦でした。

二条窪にある楫取素彦旧宅地の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

二条窪にある楫取素彦旧宅地(桜楓山荘跡)(長門市)
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萩中の倉にある楫取素彦旧宅跡の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

萩中の倉にある楫取素彦旧宅跡(萩市)
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萩の城下町のナツミカンの写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

萩の城下町を今も彩るナツミカン
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  • ※1 「禁門の変」後、政権を奪還した保守派が元治元(1864)年12月、旧藩政府員を次々と投獄・処刑。素彦も投獄された。本文※1へ戻る
  • ※2 松陰や、寿、美和(みわ)らの兄・杉民治(すぎ みんじ)。本文※2へ戻る
【参考文献】
NHKなど『2015年NHK大河ドラマ特別展「花燃ゆ」』展示図録2015
『吉田松陰投獄後の松下村塾を託されていた 男爵 楫取素彦の生涯』2012
長谷川信明「群馬県令退任後の楫取素彦」(山口県文書館 第10回中国四国地区アーカイブズウィーク アーカイブズ歴史小話)2015など
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