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2015年11月13日号 vol.303
おもしろ山口学/楫取素彦と二人の妻 寿と美和

写真:貞宮御殿の庭にて撮影された「楫取素彦・美和子ほか集合写真」(萩博物館蔵)

第6回 次世代の育成に力を尽くした楫取夫妻

明治14(1881)年以降の楫取素彦・美和を紹介します。

楫取素彦(かとり もとひこ)の愛妻・寿(ひさ)(※1)が亡くなったのは明治14(1881)年1月のこと。群馬県令(知事)として多忙な素彦を心配したのか、友人が早くも5月に再婚を勧めますが、「お寿の後任を引き受けて、小生が気に入る者があるはずはありません」と断ります。

しかし、8月に入り、友人らから、寿の妹で久坂玄瑞(くさか げんずい)(※2)の妻だった美和(みわ)を勧められると「美和ならば息子たち(※3)にとって叔母なので双方うまくいくだろう」と考えるようになります。そのとき友人に宛てた手紙には次のようにあります。「民治(みんじ。美和の兄)はすぐに賛同してくれたが、本人(美和)は不服の様子。婦人は再度夫を持たぬという説を固く守る考えなのでしょうか。説得してほしい」。その粘り強い働き掛けからは素彦の強い意志、美和への強い親愛の情が伝わってきます。

このころすでに久坂家の家督は玄瑞の遺児(※4)が継いでいました。やがて美和は心を決し、二人は略式の祝言を経て、明治16(1882)年春、入籍。素彦55歳、美和41歳のときでした。

その後、素彦は群馬県令を辞し、夫妻は東京へ。素彦は勲功により男爵となります。美和は男爵夫人として素彦を支えるとともに、貧窮孤児の救済を目的として設立された育児院の役職員となり、公的な活動に関わるようになります。かつて素彦が一時期を過ごした三田尻(みたじり。現在の防府市三田尻)に幼稚園が創立されることになると夫妻はこれを支援。明治26(1893)年には東京を離れ、三田尻に居を構えます。

二人で皇女をご養育

明治30(1897)年、素彦は明治天皇の信任が厚かった旧萩藩士・杉孫七郎(すぎ まごしちろう)(※5)の推薦により、皇女・貞宮(さだのみや)の御養育主任を命じられます。共に仕えることになった美和と東京へ赴き、御養育に尽力し、宮中行事でも多忙を極めます。しかし、貞宮は1歳4カ月で早世。このとき素彦は民治へ次のような手紙を送っています。「ご療養の転地先でお亡くなりになられ、私と美和の悲しみは五臓がみな裂け、九腸は寸断され実に表現できません」「このような境遇に出会うことを前もって知っていれば、最初から御養育主任は決してお引き受けしなかったのにと美和と二人悲しみの涙を止めることができません」。悲嘆に暮れる様子を知った天皇から貞宮の遺品が下されると、二人は現在の防府天満宮に奉納し、冥福を祈りました。

また、美和は明治36(1903)年、財政難で閉鎖されていた萩の女学校の再発足に向け、萩婦人会副会長として支援し、その校長を務める兄・民治を後押ししました(※6)

亡き兄・吉田松陰の志を受け継ぐかのように、さまざまな形で次世代の育成に力を尽くした素彦・美和夫妻。時を経た今もなお、夫妻が支援した幼稚園には子どもたちの笑顔があり、防府天満宮では毎年1月、貞宮を追悼する式が営まれるなど、二人の思いは生き続けています。

防府天満宮の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

貞宮遥拝所がある防府天満宮。素彦は貞宮の命日の祭事に毎年参列した。
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三田尻御茶屋の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

楫取夫妻が住んだ邸宅の近くにある三田尻御茶屋。当時、美和がかつてお世話した毛利元昭(もうり もとあきら)夫妻が暮らしていた(防府市)
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「ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館『文の防府日和。』」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館『文の防府日和。』」平成28(2016)年1月11日(月曜日・祝日)まで開館。美和が再婚時に持参した玄瑞からの手紙を、素彦が装丁した「涙袖帖(るいしゅうちょう)」などを展示
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【関連リンク】
ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和。」
  • ※1 素彦の親友だった吉田松陰(よしだ しょういん)の妹。美和(文。美和子)の姉。寿(寿子)らの長兄が杉民治(すぎ みんじ)。本文※1へ戻る
  • ※2 松陰の門下生。幕末の志士。本文※2へ戻る
  • ※3 素彦・寿夫妻の次男は一時、玄瑞・文夫妻の養子にもなっていた。本文※3へ戻る
  • ※4 秀次郎(ひでじろう)。明治2(1869)年、山口に現れ、藩に玄瑞の遺児として認知された。本文※4へ戻る
  • ※5 幕末、萩藩士として初めて西欧へ渡った人物。漢詩作りや書の名人。明治維新後は主に宮中関係の役職に就き、大正天皇が皇太子のときの書道の先生も務めた。本文※5へ戻る
  • ※6 修善(しゅうぜん)女学校。本文※6へ戻る
【参考文献】
NHKなど『2015年NHK大河ドラマ特別展「花燃ゆ」』展示図録2015
道迫真吾『楫取素彦-「至誠」を体現した松陰の盟友-』2014
萩博物館 展示図録『楫取素彦と幕末・明治の群像』2012
長谷川信明「楫取素彦の書簡を読んで」『吉田松陰投獄後の松下村塾を託されていた 男爵 楫取素彦の生涯』2012
長谷川信明「群馬県令退任後の楫取素彦」(山口県文書館 第10回中国四国地区アーカイブズウィーク アーカイブズ歴史小話)2015など
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