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2015年9月11日号 vol.299
おもしろ山口学/楫取素彦と二人の妻 寿と美和

写真:野山獄跡

第2回 妻・寿の差し入れを終生、大切にした素彦

元治元(1864)年12月から慶応元(1865)年2月までの楫取素彦を紹介します。

萩博物館 特設展示「兄松陰と妹文-杉家の家族愛-」
楫取素彦や寿、美和らの古写真、松陰や美和らの手紙などを展示。
期間:平成28(2016)年9月4日(日曜日)まで
場所:萩博物館特設展示室

京都御所で禁門の変を起こし、朝敵とされた萩藩。藩政府では、保守派の椋梨藤太(むくなし とうた)が政権を握ると、元治元(1864)年12月、旧藩政府員を次々と萩の野山獄へ投獄し、処刑。楫取素彦(かとり もとひこ)も投獄され、死を覚悟します。

その野山獄へ、妻の寿(ひさ)は妹の文(ふみ。後の美和、美和子)を連れて行き、獄吏に取り入り、素彦に食事などを差し入れます。文は野山獄を恐ろしがったようですが、寿は気後れすることはありませんでした。寿はかつて兄・松陰から「せっかちな性格を直し、柔和でおっとりとした母となって子どもを育ててください」と心配されたほど気丈な性格でした。そんな寿は夫を思い、次のようなおきて破りの差し入れまでしています。

ある日、素彦は寿から差し入れられた握り飯の中に堅い物を見付けます。不思議に思い、取り出してみると、それは小さなはさみ。獄中への刃物の持ち込みは禁じられており、素彦は爪を切ったり、ひげをそったりすることもままなりませんでした。そのため寿は獄中でも夫が身なりを整えられるよう、そっと隠して届けたのです。はさみは素彦に重宝され、隣の房、さらに隣の房へもこっそりと渡って、他の囚人たちにも喜ばれたといいます。

先延ばしされる処刑の日。ついに獄から生還した素彦

12月28日、素彦に処刑の日がやってきます。役人が席に着き、親族も門外に待機。ところが素彦は命拾いをします。司獄(※1)が令状の不備を理由として処刑を先延ばしにした、というのです。その司獄は、かつて松陰が安政の大獄により江戸送りが決まった際、野山獄から実家への一時帰宅を独断で許し、両親らとの別れができるよう取り計らった人物でした。

素彦の処刑は、翌日も前藩主の命日に当たるため行われず、さらに年明けを迎えると新年の行事のため、またしても延期。こうして処刑の日が先延ばしされる中、慶応元(1865)年1月、下関で決起した高杉晋作(たかすぎ しんさく)に諸隊(※2)が合流し、椋梨藤太らの藩政府軍を襲撃。藩の内戦へと激化します。

そして大田・絵堂(現在の美祢市)での戦いなどで晋作らが勝利し、藤太は萩から逃亡。素彦は2月15日、無事に獄を出ることができたのでした。

妻・寿が差し入れたはさみ。素彦は、それを後々まで大切にしたといいます。その包み紙に「私と苦労を共にした一品なれば遺失することなかれ」と記して。

素彦の妻・寿の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

素彦の妻・寿の写真(萩博物館蔵)
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楫取素彦旧宅跡の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

楫取素彦旧宅跡(萩市)。近くに松下村塾の塾生・山田顕義(やまだ あきよし)誕生地がある
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金麗社の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

金麗社(美祢市)。藩政府軍と諸隊が大田・絵堂で戦った際に、諸隊の本陣が置かれたところ
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  • ※1 獄のことを管理する人。この司獄は福川犀之助(ふくがわ さいのすけ)。本文※1へ戻る
  • ※2 幕末維新期に萩藩や支藩で結成された、藩士や庶民からなる奇兵隊などの軍事組織。本文※2へ戻る
【参考文献】
末松謙澄『防長回天史』5 第4編-上1991
道迫真吾『楫取素彦-「至誠」を体現した松陰の盟友-』2014
広瀬敏子『松陰先生にゆかり深き婦人』1936など
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