ここから本文

2015年8月28日号 vol.298
おもしろ山口学/楫取素彦と二人の妻 寿と美和

写真:楫取素彦肖像画(群馬県立歴史博物館蔵)

第1回 妻・寿への遺書。死を覚悟する素彦

元治元(1864)年12月までの楫取素彦を紹介します。

萩博物館 特設展示「兄松陰と妹文-杉家の家族愛-」
吉田松陰(よしだ しょういん)が妹らに宛てた和歌を美和子(みわこ。美和)が書き写したものや、松陰の手紙などを展示。
期間:平成28(2016)年9月4日(日曜日)まで
場所:萩博物館特設展示室

松陰の親友で妹婿でもあり、志士や藩を支えて激動の幕末を生き抜いた楫取素彦(かとり もとひこ)。文政12(1829)年、藩医・松島家の次男として萩で生まれました。その後、儒学を教える小田村家の養子となり、藩に出仕。江戸の藩邸勤めを機に松陰の親友となり、帰郷後、松陰の妹・寿(ひさ)と結婚。松陰との絆を強めていきました。

やがて安政の大獄によって江戸へ送られることになった松陰から松下村塾を託されます。しかし、素彦は藩主の側近となり、松陰の願いには応えられませんでした。藩主に対しては藩校の改革についての意見書などを次々と提出。藩主から厚く信頼され、尊王攘夷(じょうい)派の旗頭となった藩や、松陰の門下生を、重臣・周布政之助(すふ まさのすけ)らと支えていきました。

実兄処刑の日に投獄

文久3(1863)年5月、尊王攘夷派の公卿(くぎょう)に押し切られた幕府がやむなく攘夷を行うこととした日、萩藩は外国船に攘夷を実行します。ところが8月18日の政変が起き、萩藩は京都から追放されます。翌年1月には外国の軍艦が来襲するという一報が藩に届き、素彦は事情を探索するため長崎へ。鉄砲購入の任も帯びていました。

藩の状況はその後も悪化する一方で、7月には京都で禁門の変を起こして朝敵とされ、さらに翌月には英・仏・米・蘭の四カ国連合艦隊が下関に来襲。藩内は危機的状況に陥り、保守派・椋梨藤太(むくなし とうた)が政之助から政権を奪い、旧藩政府員への弾圧を始めます。

素彦も失脚。死を覚悟し、寿へ長い遺書をしたためます。そこには次のような一文がありました。「昔、松陰兄があなたたちへ申された歌に『かくあらんことは武夫(もののふ)の常(※1)』とあるのは、このことだと思ってください」。素彦は妻子に別れの歌も詠み、義弟の久坂玄瑞(くさか げんずい)・文(ふみ。後の美和)夫婦の養子とした次男には、父としての思いをこう伝えました。「亡きあとのかたみとのこすよろひびつ あけてこそ知れ親のこゝろを(※2)」。

やがて松陰の門下生・高杉晋作(たかすぎ しんさく)が保守派の打倒を目指し、下関で決起します。その4日後の12月19日、素彦はついに野山獄に投獄されます。それはすでに投獄されていた七人の旧藩政府員が処刑された日。その七人の中に、藩の海軍を率いて攘夷を実行した素彦の実兄がいたのでした。

毛利敬親肖像/画像をクリックで拡大。Escキーで戻ります

幕末の萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)肖像(山口県立山口博物館蔵)
※画像をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

旧萩藩校明倫館の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

旧萩藩校明倫館(めいりんかん)(萩市)
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

楫取素彦旧宅跡の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

楫取素彦旧宅跡(萩市)。近くに松下村塾の塾生・山田顕義(やまだ あきよし)誕生地がある
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。


  • ※1 松陰は寿と文に「武士の母となる妹たちよ、私のように公のために身を尽くして命を落とすことは武士にとって当たり前のことなのだから、動じないよう、心していなさい」といった意味の和歌を贈った。本文※1へ戻る
  • ※2 「形見として残す鎧櫃(よろいびつ)を開けて、どうか私の親心を知ってください」といった意味。本文※2へ戻る
【参考文献】
一坂太郎『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』2014
末松謙澄『防長回天史』5 第4編-上1991
道迫真吾『楫取素彦-「至誠」を体現した松陰の盟友-』2014
村田峰次郎『楫取素彦伝-耕堂楫取男爵伝記-』2014など
【おすすめリンク】
おもしろ山口学バックナンバー

ページの先頭へ戻る



ページの先頭へ