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2015年7月24日号 vol.297
おもしろ山口学/松下村塾の塾生・吉田稔麿

写真:柄に「(吉)」の文字が見られる吉田稔麿愛用木刀(松陰神社蔵)

第2回 池田屋事件と稔麿の死

志半ばで亡くなった「松下村塾の四天王」の一人、吉田稔麿を紹介します。

特別展「吉田松陰(よしだ しょういん)が生まれた杉家とその家族-妹たちとの絆-」
「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録された松下村塾。そのすぐそばにある宝物殿「至誠館」では、松陰と家族、塾生との深い絆などを貴重な資料を通じて紹介しています。
期間:10月13日(火曜日)まで
場所:松陰神社宝物殿「至誠館(しせいかん)」

文久3(1863)年7月、士雇(さむらいやとい)(※1)に昇進した吉田稔麿(よしだ としまろ)は、久坂玄瑞(くさか げんずい)ら塾生仲間と尊王攘夷(じょうい)派の志士として活動していました。

しかし、尊王攘夷派の旗頭だった萩藩が、8月18日の政変で京都から追放される事態となります。藩内では、京都に進発して朝廷に対して無実を訴えようという声が高まる中、稔麿や玄瑞は時機を待つべきと考えます。稔麿は幕府へのとりなしを老中に依頼するため江戸へ行き、一時仕えた旗本(※2)らと接触するなど、奔走します。旗本は尽力してくれたものの活動は実らず、元治元(1864)年3月、玄瑞らが朝廷の情勢を探るために潜んでいた京都へ。その後、山口に戻り、5月に再び京都に入りました。 そのころ京都では、新選組による尊王攘夷派の志士への弾圧が激しくなっていました。そうした中、6月5日に起きた池田屋事件に稔麿は巻き込まれたのです。

生きていれば総理大臣

稔麿はその朝、なじみの店に急ぎ、旅支度の品を注文し、夕方、藩邸近くの宿・池田屋に届けさせていました。池田屋ではその夜、尊王攘夷派の志士がひそかに集うことになり、池田屋の主人の息子が後に記したものによれば、その酒・さかなを注文したのが稔麿だったといいます。そして志士が集った午後10時ごろ、新選組が襲撃。不意を突かれて多くの志士の命が奪われ、稔麿もその夜、命を失いました。

稔麿の最期には諸説ありますが、山口にいた藩の重臣は京都からの報告を聞き、次のように日記に書いています。「稔麿、藩邸にいったん帰り、変を報じ、槍を提げ、また出て、加州邸(※3)前にて敵と闘い、死す」…。事件は藩内を憤慨させ、京都への進発の引き金となって禁門の変を招き、玄瑞も命を落とすことになりました。

彼らの死から4年後、時代は明治に変わり、明治18(1885)年には塾生仲間の伊藤博文(いとう ひろぶみ)が日本で最初の内閣総理大臣となります。その後、塾生仲間だった品川弥二郎(しながわ やじろう)(※4)は「松陰門下の傑出は誰か」と尋ねられ、次のように答えたといいます。「吉田稔麿が第一じゃ。生きて今頃(ごろ)居るなら据置(すえおき)の総理大臣(中略)、吉田は特別に豪(えら)かった」。

才気鋭敏で松陰から将来を期待された稔麿。志半ばで命を散らした後も、仲間の胸の中で鮮やかに生き続けていました。

松下村塾の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

松下村塾。すぐ近くに稔麿の生家があった
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品川弥二郎誕生地の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

品川弥二郎誕生地(萩市椿東)。現在は公園(船津こども遊園地)となっている
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伊藤博文別邸の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

伊藤博文別邸(萩市椿東)。明治時代に現在の東京都品川区に建てられ、近年萩に移築。隣に旧宅がある
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  • ※1 士分に昇進前の下級士。萩藩独自の制度。本文※1へ戻る
  • ※2 幕臣で、将軍に御目見(おめみえ)する資格のある者。本文※2へ戻る
  • ※3 加賀国(かがのくに。現在の石川県・富山県の大半)の藩邸。萩藩の藩邸のすぐ南にあった。本文※3へ戻る
  • ※4 明治政府で殖産興業政策を推進。特に農政に尽力。「農業協同組合の父」とも呼ばれる。内務大臣などを務めた。本文※4へ戻る
【参考文献】
一坂太郎『吉田稔麿 松陰の志を継いだ男』2014
一坂太郎・道迫真吾『吉田年麻呂史料』2012
末松謙澄『防長回天史』5 第4編-上1991
得富太郎『幕末防長勤王史談』第6 1942など
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