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2015年7月10日号 vol.296
おもしろ山口学/松下村塾の塾生・吉田稔麿

写真:松下村塾。すぐ近くに稔麿の生家があった

第1回 松陰との決別。そして亡き松陰への思い

師・吉田松陰と家族との間で揺れた吉田稔麿を紹介します。

特別展「吉田松陰(よしだ しょういん)が生まれた杉家とその家族-妹たちとの絆-」
「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録された松下村塾。そのすぐそばにある宝物殿「至誠館」では、松陰と家族、塾生との深い絆などを貴重な資料を通じて紹介しています。
期間:10月13日(火曜日)まで
場所:松陰神社宝物殿「至誠館(しせいかん)」

松下村塾の四天王(※1)の一人、吉田稔麿(よしだ としまろ)。才気鋭敏で松陰からは自分の志を継ぐ人物として目をかけられ、高杉晋作は塾で初めて会ったとき後方にいた稔麿の射るような眼光に気付き、すぐに一目置くようになったという人物でした。入塾の翌年、安政4(1857)年に江戸勤めとなると、江戸の情勢をいち早く松陰へ。情報収集能力も優れていました。

萩に帰ってきたのは安政5(1858)年、松陰が幕府老中の襲撃を計画し、それを知った藩政府が松陰を野山獄に投じようとしたころです。稔麿ら塾生8人は藩の要人宅へ押し掛けて抗議し、謹慎処分に。江戸にいた稔麿の父親は、その処分に衝撃を受けます。稔麿は父親と手紙を何度も交わし、両親や苦しい家計のことを考え、急に松陰との距離をとり始めました。

松陰は塾生らと稔麿の家へ行き、自分の元へ戻るよう強く求めます。その剣幕(けんまく)は、稔麿の幼い妹が泣き騒ぐほど。しかし、稔麿はそろばんを抱き、「私はまさに凡庸な役人となることを学びたいだけなのです」とかたくなに拒否。それから程なくして松陰は野山獄に入り、「稔麿の心は死んだ」と、塾で線香をあげさせたほど、悲しみました。

まず一番に松陰先生へ…

その後、下級役人としての道を歩んでいた稔麿。しかし、松陰が江戸で刑死した翌年の万延元(1860)年、彼は藩の仕事で赴いた兵庫で突然失踪します。そして江戸へ行き、名を変え、旗本に仕えます。長州を捨てて幕府側にくら替えしたのではなく、情報収集に優れた稔麿は幕府側に潜り込み、内側から攘夷実行へと導こうとしたのです。その間も、尊王攘夷(じょうい)派のリーダーの一人となっていた久坂玄瑞と連絡を取っていました。

萩藩が公武合体の開国策から攘夷へと方針を転換し始めた文久2(1862)年6月、稔麿は旗本の元を辞去します。翌月、京都の藩邸に自首し、玄瑞らの仲介もあって帰藩を許されます。玄瑞はそれをわが事のように喜び、妻・文(ふみ)に「みやすく(容易に)お許しが出て安心した」と手紙を送ります。

文久3(1863)年4月、稔麿は玄瑞ら塾生仲間と京都から長州へ戻り、5月、関門海峡で攘夷を実行します。そして7月、それまでの働きや松陰の門下生であることも評価され、藩から士雇(さむらいやとい)(※2)への昇進を通達されます。稔麿は母へ手紙を送ります。「まず一番に吉田(松陰)先生へ、お神酒、お魚を差し上げてください。ひとえに先生のおかげです」。松陰との心の絆はやはり絶ち切ってはいなかったのです。

稔麿の生家の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

稔麿の生家。『松陰先生と吉田稔麿(復刻版)』(マツノ書店発行。山口県立山口図書館蔵)より。現在、生家は残っていない
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稔麿の生家跡に建つ碑の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

稔麿の生家跡に立つ碑。稔麿は、松陰が江戸に送られるとき、隣家の女性に涙ながらに頼み、生け垣の穴から見送ったという
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「伊藤博文旧居」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

稔麿の生家近くにある「伊藤博文(いとう ひろぶみ)旧居」。博文と稔麿は少年時代から知り合いだった
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  • ※1 他に久坂玄瑞(くさか げんずい)、高杉晋作(たかすぎ しんさく)、入江九一(いりえ くいち)とされる。本文※1へ戻る
  • ※2 士分に昇進前の下級士。萩藩独自の制度。本文※2へ戻る
【参考文献】
一坂太郎『吉田稔麿 松陰の志を継いだ男』2014
一坂太郎・道迫真吾『吉田年麻呂史料』2012
来栖守衛『吉田松陰と吉田稔麿(復刻版)』1990
海原徹『松下村塾の人びと』1993
三宅紹宣「吉田稔麿の政治思想」『史学研究』247号 2005
山口県教育会編『吉田松陰全集』5 1973など
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