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2015年6月26日号 vol.295
久坂玄瑞進撃像の写真

写真:久坂玄瑞進撃像

第4回 禁門の変と涙袖帖
玄瑞の最期と、その後の文を紹介します。

「兄松陰と妹文-杉家の家族愛-」
杉家から萩市に寄贈された吉田松陰(よしだ しょういん)の手紙全59通などを6期にわたる展示替えを通じて展示。
期間:平成28(2016)年9月4日(日曜日)まで
場所:萩博物館特設展示室

松下村塾の塾生が「誰もが付いていきたい人だった」と証言している玄瑞。彼は、萩藩の尊王攘夷(じょうい)派の志士のリーダーの一人として活躍していました。

文久3(1863)年の8月18日の政変で尊王攘夷派の旗頭だった萩藩が京都から追放されると、藩内では、“京都に進発して朝廷に冤罪(えんざい)を訴えるべき”という声が高まります。そんな中、玄瑞は時機を待つべきと主張し、大坂周辺に潜んで京都の政情を探っていきます。

元治元(1864)年、朝廷の政治に参与として関わっていた将軍後見職の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)や島津久光(しまづ ひさみつ)ら有力大名の間に亀裂が生じ、帰国する参与が相次ぐようになります。玄瑞はそれを好機と捉え、藩政府へ「今進発すべき」と訴えます。さらに6月、京都で起きた池田屋事件(※1)の報に藩内は憤慨し、藩は進発を決定。長州勢は兵を率い、続々と京都へ向かいました。

禁門の変。松下村塾時代からの仲間と共に…

京都で、玄瑞らは朝廷へ嘆願を重ねました。ところが7月17日、朝廷は即刻撤兵しなければ長州勢を追討する、と決定します。長州勢は軍議を開き、玄瑞は“いったん軍勢を大坂へ退去させ、世子の上京を待って方策を考えるべき”と退去策を主張しますが、御所内の会津軍への奇襲策を主張する藩士らに押し切られます。それは、長州勢が8月18日の政変には会津藩が大きく関わっていると捉えていたことや、入京間近の世子を巻き込まないようにと急いだためかもしれません。

18日には長州征討の勅命が出され、その夜、長州勢は行動を開始します。19日、諸隊(※2)の一つが御所の門(禁門)へ突入(禁門の変)。しかし、反撃を受け、その総督・来嶋又兵衛(きじま またべえ)が戦死すると、長州勢は総崩れとなります。戦の中、玄瑞は御所内の公卿(くぎょう)の屋敷へ走り、朝廷へのとりなしを嘆願しますが聞き入れられず、鹿児島藩兵などに囲まれ、ついに松下村塾の塾生・寺島忠三郎(てらじま ちゅうざぶろう)と共に自刃。享年25歳でした。

師・松陰の志を継ぐべく駆け続けた玄瑞。武士の妻として夫を萩から支え続けた文。夫と離れて暮らすことが多かった文にとって、玄瑞からの手紙は宝物だったことでしょう。

時を経て明治16(1883)年、文(※3)は、亡き姉・寿(ひさ)の夫で、兄・松陰の親友だった楫取素彦(かとり もとひこ)と再婚します。素彦は、玄瑞から文への手紙を巻物に仕立て、『涙袖帖(るいしゅうちょう)』と名付けます。それは、かつて玄瑞が文へ、武士の妻としての覚悟を求めた手紙に記していた、赤穂(あこう)義士から妻への書簡集『涙襟集(るいきんしゅう)』にちなんだ命名ともいわれています。

文や素彦がいとおしんだ玄瑞の手紙からは、激動の時代に翻弄(ほんろう)されながらも、それぞれが大切な家族を思い合った姿が浮かんできます。

久坂玄瑞肖像画(萩博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

久坂玄瑞肖像画(萩博物館蔵)
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『甲子兵燹図(かっしへいせんず)』(萩博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

『甲子兵燹図(かっしへいせんず)』(萩博物館蔵)。禁門の変で生じた火が京都を焼く大火となった様子が描かれている
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「楫取素彦・美和子(文)夫妻集合写真」(萩博物館蔵)の一部の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「楫取素彦・美和子(文)夫妻集合写真」(萩博物館蔵)の一部、素彦・美和子夫妻。明治32(1899)年撮影
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  • ※1 尊王攘夷派の志士が新選組に襲われた事件。本文※1へ戻る
  • ※2 幕末維新期に萩藩や支藩で結成された、藩士や庶民からなる奇兵隊などの軍事組織。本文※2へ戻る
  • ※3 慶応元(1865)年、美和(みわ。美和子)と改名。本文※3へ戻る
【参考文献】
下関市立長府博物館『晋作決起-元治の大局』2014
末松謙澄『防長回天史』5 第4編-上1991
東京大学出版会『楫取家文書』1、1970
武田勘治『久坂玄瑞』1998
福本義亮『久坂玄瑞全集』1992 など
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