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2015年6月12日号 vol.294
やまぐち幕末維新寄り道紀行

誕生地や旧宅地、寺社に石碑に記念館。山口県には、幕末の志士ゆかりの地がたくさん。
歴史好きのあなたに贈る、憧れの聖地から行く寄り道企画!
今回は、高杉晋作(たかすぎ しんさく)の墓所がある東行庵(とうぎょうあん)周辺をご紹介します。吉田は、奇兵隊(きへいたい)の陣屋(本陣)が置かれ、約400人もの隊士が訓練などに励んだ地でもあります。下関観光ガイドの会 中山寿子(なかやま ひさこ)さんのご案内で、さぁ今日も寄り道してみましょう!

下関観光ガイドの会の中山寿子さん
晋作は、奇兵隊の陣屋があった吉田の清水山(しみずやま)に葬られました。ここは当時、奇兵隊軍監を務めていた山縣有朋(やまがた ありとも)が草庵・無隣庵(むりんあん)を建てて暮らしていた場所でした。明治2年、山縣はこの地を離れる際、晋作の菩提(ぼだい)を弔う梅処尼(ばいしょに)にこの草庵を譲りました。現在の東行庵後方の住居部分は、無隣庵の名残だそうです。現在の東行庵は、明治17年に山縣や伊藤博文(いとう ひろぶみ)、井上馨(いのうえ かおる)ら明治の名士となったかつての同胞の寄付によって建立されたものです。「東行庵」という名前はもともと、下関市の新地で晋作が療養していた建物に付けられていた名前だとか。
毎月14日、晋作の月命日にお墓参りに訪れる女性ファンもいるのだとか。晋作は今なお、人々を魅了し続けているのですね。ここには、晋作ゆかりの遺品などを収蔵、展示した東行記念館もあります。
晋作のお墓の近くに「高杉晋作顕彰碑」があります。 「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然(しゅうもくがいぜん)、敢えて正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」 この有名な一節で始まる撰文(せんぶん)は、幕末動乱期を晋作と共に生き抜いた伊藤博文によるものです。
吉田は当時、山陽道と萩へ向かう赤間関(あかまがせき)街道との分岐点で交通の要衝でした。重要な行政区だった吉田には寺社が多く、それらが奇兵隊の詰め所として利用され、多くの隊士たちが暮らしました。奇兵隊がこの地にあったのは慶応から明治初期の4年ほどでしたが、現在でも吉田小学校で行われている吉田地区「ふれあい運動会」では、奇兵隊を題材とした歌謡曲で子どもから大人までが踊るほど、ゆかりの深いところです。
慶応3年8月に兵舎、稽古場、講堂などを配した陣屋が完成すると、奇兵隊は吉田の町からこちらに移ってきました。ガイドの中山さんによれば、ここでは約400人もの隊士が厳しい規律に従って調練や学習に努め、やがて戊辰戦争へも出陣して行ったのだそうです。
当時は幅約300メートル、奥行130メートルの広い敷地でしたが、現在はその一部が陣屋跡として保存され、奇兵隊士の像などに往時をしのぶことができます。堤防は、当時の名残をとどめています。
- 【イベント情報】菖蒲まつり
- 毎年6月の第二日曜日に開催されます。約6,000株の花菖蒲が初夏を彩ります。花菖蒲の鉢植えや吉田地区まちづくり懇談会主催の「ふれあい市場」で地元吉田地区の物産販売があります(花菖蒲の株は当日以外も販売中)。
- 開催日:
- 6月14日(日曜日)
- 【取材の途中で面白いものを見つけちゃいました!】
- 東行庵にある司馬遼太郎(しば りょうたろう)の文学碑。台座は、山口県の形をしています。

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