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2015年5月22日号 vol.293
やまぐち幕末維新寄り道紀行

誕生地や旧宅地、寺社に石碑に記念館。山口県には、幕末の志士ゆかりの地がたくさん。
歴史好きのあなたに贈る、憧れの聖地から行く寄り道企画!
久坂玄瑞(くさか げんずい)等が自刃した「禁門の変」。その変に敗れたため、長州は朝敵とされ、長州征討の命が下ります。藩政府は征討回避のため、3人の家老に切腹を命じました。宇部はかつて、3人の家老のうち、福原越後(ふくばら えちご)公と國司信濃(くにし しなの)公の領地で、今回は、福原越後公を紹介します。宇部市ふるさとコンパニオンの会会長の脇彌生(わき やよい)さんのご案内で、さぁ今日も寄り道してみましょう!

宇部市ふるさとコンパニオンの会会長の脇彌生さん
福原越後公は徳山藩の藩主・毛利広鎮(もうり ひろしげ)の六男として生まれ、その後、萩本藩の永代家老・福原家の家督を継ぎ、宇部の領主となりました。福原家は、鵜ノ島(うのしま)開作や常盤池(ときわいけ)の築堤、真締川(まじめがわ)の付け替えなどを行い宇部の発展に功績がありました。代々、立派な領主だったのですね。
禁門の変で朝敵となったとき、藩政府は、福原越後を含む3家老に切腹を命じました。藩命を受けて京都へ赴き、戦い、その果ての切腹。「不忠不義の至り」という罪状書の言葉に納得できず、その無念さはいかばかりかと感じます。
「くるしさは、絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は 捨てがてにする」
辞世の句が胸に迫ります。
宇部護国神社は切腹の二年後の慶応2(1866)年に越後公を祭るために「維新招魂社」として建てられました。
神社の敷地の奥には、禁門の変で命を落とした21人の兵士たちの霊標がたたずみます。 霊標には「城州伏水之役、不知所終(城州伏見の役で亡くなったが、どこで命を落としたか分からない)」と刻まれています。

宇部護国神社と福原越後像
銅像は、神原(かみはら)公園にありましたが、第二次世界大戦時に金属供出のため一時消失、その後平成22(2010)年に住民の要望を受け地元の篤志家(とくしか)の寄贈により宇部護国神社境内に再建されました
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。
宇部護国神社から南へ10分ほど歩くと、宗隣寺(そうりんじ)があります。宗隣寺には、越後公の亡きがらを運んだとされるかごがひっそりと安置されています。
宗隣寺の屋根瓦には、2種類の紋が刻まれています。
藩主を支える福原家の家紋は、毛利家になぞらえた「二に三ツ星紋」ですが、藩主と似通った紋を使うのは畏れ多いことから、生命力が強く子孫繁栄を意味する「カタバミ紋」を裏紋として使用していました。
この「カタバミ」。実は、県立宇部高等学校の校章にもなっているそうですよ。
越後公は教育にも熱心で、大政奉還の3年前の元治元(1864)年に屋敷の敷地そばに文武両道の学館を作りました。その名も、なんと「維新館」。「維新」とは、「全てが改まって新しくなること」という意味で、維新館では西洋の銃陣(銃隊で組織した陣)など先進的な学問が学ばれました。越後公が新たな時代を意識していたことがうかがえます。
- 取材の途中で面白いものを見つけちゃいました!
- 宗隣寺から東に20分ほど歩いた所に、かつての福原家の屋敷跡が福原史跡公園として残っています。 敷地内の樹木は当時のままといわれ、その中に1本、「キンギョツバキ」という名前のツバキが・・・。 葉がくびれて、金魚の尾ひれのように見えませんか?
- 【スポット情報1】日本最大級の水琴窟(すいきんくつ)
- 宇部護国神社の入り口近くの手水鉢(ちょうずばち)には、日本最大級とうたわれる水琴窟(すいきんくつ)が。
水琴窟とは、地中に埋めたかめに水を落とし、琴のような音を反響させる仕掛け。地中とつながる縦穴に耳を近づけると・・・琴の弦を弾くような涼しげな音色が耳を楽しませてくれます。
- 【スポット情報2】国の名勝「龍心庭」
- 宗隣寺本堂の西側にある「龍心庭(りゅうしんてい)」は、南北朝時代に築かれた池泉式(ちせんしき)の庭で山口県最古。こけむした岩を配し、潮の満ち引きを表現する「干潟様(ひがたよう)」は全国に2カ所しかなく、学術的にも貴重。
- 宇部エリア
- 所在地:
- 宇部市中宇部(宇部護国神社)
- 小串(宗隣寺)
- 中尾(維新館跡・福原史跡公園)
- アクセス:
- 山陽自動車道・宇部ICから県道490号を南へ約7分
- 関連リンク:
- 宇部観光コンベンション協会「宇部の幕末維新」
- 宇部観光コンベンション協会「宇部護国神社」
- 宇部市観光地案内「宗隣寺」

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