ここから本文

2015年5月22日号 vol.293
「松浦松洞出生之地」の碑の写真

写真:現在「松陰神社前」のバス停がある地に松浦松洞(まつうら しょうどう)の家があった。「松洞園」として整備され、「松浦松洞出生之地」の碑などがある

第2回 友・松浦松洞の死
吉田松陰(よしだ しょういん)死去後の3年間を紹介します。

2015年NHK大河ドラマ特別展「花燃ゆ」
「花燃ゆ」の舞台をいろどる維新資料140点を一挙に公開。5月24日15時から本展企画委員の萩博物館の道迫真吾(どうさこ しんご)さんと山口県立山口博物館の山田稔(やまだ みのる)さんによるスペシャルギャラリートークを開催!
期間:5月24日(日曜日)まで
場所:山口県立萩美術館・浦上記念館
萩博物館 特別展「長州男児、愛の手紙」
久坂玄瑞(くさか げんずい)から文(ふみ)への手紙6通全てを一挙初公開。
期間:6月21日(日曜日)まで
場所:萩博物館企画展示室
萩博物館 特設展示「兄松陰と妹文-杉家の家族愛-」
6期にわたる展示替えを通じて杉家から萩市に寄贈された松陰の手紙全59通などを展示。
期間:平成28(2016)年9月4日(日曜日)まで
場所:萩博物館特設展示室

安政の大獄で吉田松陰が亡くなって約半年後の万延元(1860)年春、久坂玄瑞は萩から江戸へ。妻の文と再び離れて暮らすようになります。

文久元(1861)年、萩藩は、藩士・長井雅楽(ながい うた)(※1)が提唱する公武合体の開国策を藩の方針として、朝廷と幕府との間を周旋(※2)していました。しかし、「旧来の幕府では、日本が列強諸国に侵害されずに独立を保つことはできない」という亡き松陰の考えを受け継ぐ玄瑞は、藩の重臣を通じて藩主の世子(せいし)・毛利元徳(もうり もとのり)に訴え、さらには雅楽の周旋を阻む行動に走ったため、藩から帰国を命じられます。

萩に戻った玄瑞は、松下村塾の塾生に呼び掛け、松陰の著作などを筆写し、その筆耕料を尊王攘夷(じょうい)の活動資金などに充てようとします。その輪の中には、「吉田松陰自賛肖像」を描いた松浦松洞がいました。松下村塾で漢詩を学んだ松洞は、松陰の影響を強く受け、松陰亡き後も塾生と交流していました。松洞と玄瑞夫妻は住まいも近く、家族ぐるみの親しい関係だったと考えられます。

開国から攘夷へ! 萩藩の方針を転換させた玄瑞たち

文久2(1862)年3月、玄瑞は藩命を受けて兵庫へ旅立ちます。このころ諸藩の志士らの間でも尊王攘夷の機運が高まっていました。玄瑞は4月、雅楽の周旋を阻もうと京都へ。ついには松洞らと、雅楽の暗殺を考えますが、信頼する藩士にいさめられ、暗殺を中止。松洞は悲憤し、自刃します。玄瑞は再び暗殺を図りますが、雅楽に察知されて未遂となり、7月、京都の藩邸に自首。そのまま京都で謹慎となりました。

謹慎の2カ月間、玄瑞は松洞を失った苦しい胸中を何度も文への手紙につづっています。「松洞の母は日夜さぞさぞ悲しんでいるだろうと考えると実に気の毒です」「松洞の家へ時々香典を届けてください」「松洞のことを思うと残念で耐えられません…」。文は玄瑞の思いをくみ、松洞の母を度々見舞ったことが玄瑞の手紙から分かります。

このころ、雅楽の公武合体の開国策は、朝廷からも非難の声が上がるようになっていました。そして玄瑞らの主張がついに萩藩を動かします。藩の方針は、公武合体の開国策から攘夷へ転換。そして藩主が朝廷に働き掛け、勅使が幕府へ赴いて攘夷を約束させることが決まります。玄瑞は文へ知らせます。「吉田先生(松陰のこと)、亀太郎(かめたろう。松洞のこと)など存命ならば、踊りあがって喜ばれただろうと思うと残念でなりません」。

玄瑞も勅使一行に随行するため、江戸へ急ぎ旅立ったのは、松陰の死から3年目の文久2(1862)年10月、翌日が松陰の命日という日のことでした。

松陰神社境内にある松陰や文の実家・杉家の旧宅の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

松陰神社境内にある松陰や文の実家・杉家の旧宅。文は玄瑞と結婚後、東奔西走する夫の帰りを、この家で待った
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

藩校「明倫館」内の剣槍術場「有備館」の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

玄瑞が帰郷中の文久2(1862)年1月、坂本龍馬(さかもと りょうま)が訪ねてきた。そのとき龍馬は藩校「明倫館(めいりんかん)」内の剣槍術場「有備館(ゆうびかん)」で少年と剣道の試合をしたと伝わる
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「絹本着色吉田松陰像(自賛)」(部分)(山口県文書館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

松洞が描いた「絹本着色吉田松陰像(自賛)」(部分)(山口県文書館蔵)。松洞は他にも優れた作品を残している
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。


  • ※1 萩藩で「智弁随一」と称された政治家。朝廷と幕府が公武合体を進め、世界へ通商・航海し、その後、武威を海外に振るうよう、朝廷から幕府に命じ、幕府がこれを奉ずるならば、国内は統一し、海外へも雄飛できるとする「航海遠略策」を提唱。藩論の転換後、自刃。本文※1へ戻る
  • ※2 とりもつこと、仲介という意味。本文※2へ戻る
【参考文献】
国史大辞典編集委員会『国史大辞典』10、1989
東京大学出版会『楫取家文書』1、1970
武田勘治『久坂玄瑞』1998
福本義亮『久坂玄瑞全集』1992 など
【おすすめリンク】

ページの先頭へ戻る



ページの先頭へ