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2015年4月10日号 vol.291
おもしろ山口学/吉田松陰と塾生たちの松下村塾

「吉田松陰慰霊祭写真」(萩博物館蔵)。松陰の刑死から10年後の明治2(1869)年10月、遺骸の埋葬地(現在の東京都世田谷にある松陰神社)に塾生らが集った。前列右から2番目に山田顕義(やまだ あきよし)

第3回 万事の源は志を立てることから始まる
松陰はどんな言葉を伝えたのかを紹介します。

2015年NHK大河ドラマ特別展「花燃ゆ」
「花燃ゆ」の舞台を彩る維新資料140点を一挙に公開。吉田松陰(よしだ しょういん)が形見として家族・塾生らに与えた、現存する「松陰自賛肖像」6点が史上初めて全てそろい、初日から4月27日(月曜日)までの9日間(休館日を除く)、期間限定で公開されます(すべて原本による展示は、この山口会場のみ)。
期間:4月18日(土曜日)から5月24日(日曜日)まで
場所:山口県立萩美術館・浦上記念館

吉田松陰(よしだ しょういん)が松下村塾(しょうかそんじゅく)で教えたのは、長く見積もっても2年10カ月(※1)にすぎません。どんな言葉で多くの志士を育んだのでしょう。

松陰の言葉の一つに、人間としての在り方、武士としての生き方を7カ条にまとめた「士規七則(※2)」があります。これはもともと、松陰が叔父・玉木文之進(たまき ぶんのしん)(※3)の嫡男で、後に塾生となった彦介(ひこすけ)(※4)に、元服の祝いとして贈ったものです。その後、松下村塾の指針となり、松陰が塾生に書いて贈ることもありました。

第1条には次のようなことが記されています。「人間として生まれたならば、人間は他の動物と違って、道徳を知り、行うことができるということを知らなければならない。人間には基本となる五つの関係(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友(ほうゆう))と、その間で守るべき道(※5)がある。中でも最も大切な関係が君臣・父子である」。

第2条には、当時の日本人としての道の在り方が、およそ次のように記されています。「天皇は同一の系統で代々続き、武士は天皇に代々忠義を尽くして禄(ろく)などを継いできた。武士など臣民が天皇に忠義を尽くすことは、先祖の志を継ぐこと。日本は忠(※6)と孝(※7)という道徳が一致する国である」。

さらに松陰は7ケ条を述べた最後に、志を持つこと、友を持つこと、書物を読んで生かすことの大切さを次のように説きました。「万事の源は志を立てることから始まる。人との交わりが仁義(※8)ある行いを助ける。そして書物を読み、聖人・賢人の教えを参考として今に生かすことが大切だ」と。これらの言葉は、欧米列強の脅威が迫る中、塾生らの心を強く突き動かしたのです。

山田顕義も大切にし、広まっていった士規七則

松陰が安政の大獄で刑死した後、塾生らは松陰の志を継ぎ、尊王攘夷(そんのうじょうい)(※9)運動を次々と実践していきます。関門海峡での攘夷実行。外国の軍艦からの反撃に立ち向かう奇兵隊(※10)の結成。そして禁門の変(※11)で生き残った塾生らは御楯隊(みたてたい)(※12)を結成し、慶応2(1866)年には幕長戦争(※13)で戦います。

その御楯隊の軍監となった塾生の山田顕義(やまだ あきよし)(※14)は、士規七則を大切にし続けた人でした。慶応3(1867)年には、士規七則を自ら筆写して印刷。御楯隊では、訓練の傍ら、士規七則を隊士らに講じたといい、明治維新を迎え、新政府で活躍していたころには松陰の兄から士規七則を贈られています。やがて顕義は松陰に導かれるように教育への関心を深め、大学の創設などに関わっていきました。

乃木希典(のぎ まれすけ)(※15)も士規七則にゆかりのある人物です。希典は塾生ではありませんが、16歳のとき、松陰の叔父・文之進の元で学ぶようになりました。希典は、松陰が小さな紙にぎっしりと記した士規七則を文之進から譲り受け、軍人となってもお守りのように肌身離さず持っていました。顕義や希典にとって士規七則は、その時々で道や志を再確認する指針だったのでしょう。

松陰が幾つも書き贈った士規七則。慶応2(1866)年には塾生らが印刷して配付するために直筆をそのまま原稿にして板木を作り、明治時代には石版刷りも加わり、広く世の中に伝わりました。「万事の源は志を立てることから始まる」。松陰から塾生へ、そして多くの人々へ。松陰のあまたの言葉は、時を超えて、今を生きる私たちの心に語り掛けてきます。

「士規七則」(山口県文書館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「士規七則」(山口県文書館蔵)(部分)。須佐(現在の萩市)の学館「育英館」から松下村塾に学びに来た荻野時行(おぎの ときゆき)に松陰が贈ったもの
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「一燈銭申合」(山口県立山口博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「一燈銭申合」(山口県立山口博物館蔵)(部分)。久坂玄瑞(くさか げんずい)をはじめ塾生たちは松陰の著作などを筆写し、その筆耕料を活動資金に充てるとともに、松陰の考えを広めようとした
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「山田顕義写真」(山口県立山口博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「山田顕義写真」(山口県立山口博物館蔵)(部分)。明治2(1869)年撮影。松下村塾の塾生で、後に初代司法大臣となった顕義は士規七則を大切にし続けた
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  • ※1 海外への密航を図った罪で蟄居(ちっきょ)していた実家で教え始めた安政3(1856)年3月から、野山獄に再び投じられる安政5(1858)年12月まで。本文※1へ戻る
  • ※2 「士規七則 穀甫(きほ)の加冠に贈る」『吉田松陰全集』2。「士規七則(安政2年春)」『吉田松陰全集』6。本文※2へ戻る
  • ※3 松陰の父の弟。松陰を幼いころから厳しく指導した。本文※3へ戻る
  • ※4 元治元(1864)年、長崎から帰国して御楯隊(みたてたい)に入隊。慶応元(1865)年、晋作の決起に加わり、萩藩の内戦「大田・絵堂での戦い」で重傷を負い、亡くなった。本文※4へ戻る
  • ※5 父子の親(愛)・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信。儒教に基づく。本文※5へ戻る
  • ※6 臣下として真心を尽くすこと。本文※6へ戻る
  • ※7 父母を大切にし、子としての道を尽くすこと。本文※7へ戻る
  • ※8 仁は広く人や物を愛すること。義は他人に対して守るべき正しい道、物事の道理にかなっていること。本文※8へ戻る
  • ※9 攘夷とは、外敵を撃ち払って入国させないことなど。本文※9へ戻る
  • ※10 文久3(1863)年、高杉晋作らが創設した軍隊。武士だけでなく、農民、町人の有志も参加。 本文※10へ戻る
  • ※11 文久3(1863)年の8月18日の政変で京都での地位を失った萩藩が、朝廷に無実の罪を訴えようとして、翌年、京都御所へ突入し、鹿児島藩兵らと戦って敗れた事件。本文※11へ戻る
  • ※12 品川弥二郎(しながわ やじろう)ら多くの塾生が参加。彦介も加わった。本文※12へ戻る
  • ※13 長州軍と幕府軍との戦い。山口県では、4つの国境で戦ったことから「四境(しきょう)戦争」ともいう。本文※13へ戻る
  • ※14 通称・市之允(いちのじょう)。禁門の変に加わった後、幕長戦争などでも奮戦。後に初代司法大臣となり、近代法の整備に尽力。また、現在の日本大学の学祖となり、國學院大學(こくがくいんだいがく)の創設にも携わった本文※14へ戻る
  • ※15 長府藩(現在の下関市)出身。日露戦争では、旅順を苦戦の末に攻略した一方、二人の息子や多くの兵を失い、苦悩する姿は戦争の悲運の象徴ともなった。本文※15へ戻る
【参考文献】
海原徹『松下村塾の人びと』1993
松陰神社『松陰神社所蔵宝物図録』2009
松陰神社ブログ
萩博物館編『山田顕義と近代日本 生誕170年記念特別展』2014
山口県教育会編『吉田松陰全集』2・6 1973
山口県文書館編『山口県文書館所蔵アーカイブズガイド幕末維新編』2010
広瀬豊『吉田松陰の士規七則』2013など
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