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2015年3月27日号 vol.290
おもしろ山口学/吉田松陰と塾生たちの松下村塾

明治40年代に松下村塾を写した「松下村塾写真」(萩博物館蔵)(左)と、現在の松下村塾(右)

第2回 唯一無二の玄瑞を失ってはならない
松陰は、どんな先生だったのかを紹介します。

日本を動かした多くの志士を育んだ吉田松陰(よしだ しょういん)。松陰は、塾生の個性や才能を見極めることに優れ、個性を生かす教育を行った人でした。

松陰からいち早く才能を見いだされた塾生に、後に初代内閣総理大臣となった伊藤博文(いとう ひろぶみ)(※1)がいます。当時の名は、利助(りすけ)。入塾は17歳のときのことです。松陰は利助について「生来の資質は他の塾生にひけを取り、学問も未熟」と評しながらも、「正直で虚飾がなく、僕は非常に気に入っている(※2)」と利助を認めています。そして「なかなか周旋家になりそうな(※3)」と政治家向きの資質を早くも見抜いたのは、入塾から1年未満のことでした。

松陰は塾生に、個性に即した字(あざな)(※4)を作って与えることもしています。いわば、あだ名付けの名人。松陰から字を与えられた人物に吉田稔麿(よしだ としまろ)(※5)がいます。稔麿は「松下村塾(しょうかそんじゅく)の四天王(※6)」の一人。松陰は稔麿を「才気は鋭敏で、よく大事を論じるが、学ぶことを怠る(※7)」と秀才として認めつつも厳しい評価を下し、字として与えたのが、気楽にのんびり過ごしてはならないといった意味の「無逸(むいつ)」でした。短所を戒め、長所を伸ばしてやりたい。そんな松陰の愛情が伝わってきます。

稔麿には頑固な面もあり、松陰は「陰頑」という言葉を使っています。それに対し、同じ塾生の高杉晋作を「陽頑」と評し(※8)、他人の言葉を容易に受け入れない頑固さがあるが、生来の明るさがある、と晋作の長所を見いだします。

晋作の短所について松陰はこんなふうにも語っています。「後に必ず大を成す人間だ。今みだりにその頑質を矯正すれば、かえって成さない。いつか成るならば、今たとえ人の言葉を容(い)れなくとも、その言葉を棄(す)てることはないだろう(※9)」。松陰は晋作の成長を信じていました。

暢夫(ちょうふ)、行け!

松陰は、時には塾生同志の競争心を駆り立てることで個性や才能を伸ばそうとしました。その例が晋作と久坂玄瑞(※10)です。松陰は、入塾当初の晋作を「有識の士だが、学問が未熟」と判断。玄瑞を「第一流」と持ち上げることで晋作を競わせるように仕向けました。

すると、初めは不服そうだった晋作が、たちまち学問を上達させ、議論に優れ、他の塾生らから一目置かれるようになります。そうした中で玄瑞は「暢夫(ちょうふ。晋作の字(あざな))の識には及ばない」と言うようになり、晋作も「玄瑞の才には及ばない」と互いを認め合うようになりました(※11)

やがて稔麿が江戸へ。玄瑞も遊学のため江戸へ。一足先んじた彼らから続々と情報が萩にもたらされるようになります。晋作は仲間の成長に焦り、松陰に遊学の仲介を依頼します。そしてようやく安政5(1858)年7月、晋作の江戸遊学が決まります。そのとき松陰は、晋作に次のような文を与えて激励しました(※12)

「玄瑞はすでに江戸へ行き、暢夫も今まさに行こうとしている。玄瑞に遅れること、思うに6カ月のみである。(中略)暢夫の識、玄瑞の才。これを合わせれば、成し遂げられないことなどない。暢夫よ、暢夫。天下に才人は多いが、唯一無二の玄瑞を失ってはならない。(中略)暢夫、行け」。

旅立つ塾生には、晋作に与えたように一人ひとりに合った言葉を贈って道を示し、「行け」と背を押し、送り出した松陰。塾生らが松陰の刑死後、志士となって羽ばたき、時代を動かしていった源には、彼らの成長を信じた松陰の熱い誠がありました。

「吉田松陰書状 久坂玄瑞宛(安政5(1858)年6月19日)」(山口県文書館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「吉田松陰書状 久坂玄瑞宛(安政5(1858)年6月19日)」(山口県文書館蔵)。松陰は、江戸へ遊学中の玄瑞へ、萩で学んでいる塾生らの近況を伝え、玄瑞を激励した
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「伊藤俊輔(しゅんすけ)写真(高杉晋作所持写真帳内)」(下関市立東行記念館蔵)の一部/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「伊藤俊輔(しゅんすけ)写真(高杉晋作所持写真帳内)」(下関市立東行記念館蔵)の一部。松陰は先の玄瑞宛ての手紙で、当時18歳の博文について「なかなか周旋家になりそうな」と記している。俊輔とは博文のこと。この写真は慶応年間の撮影
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「野村靖(のむら やすし)写真」(山口県文書館蔵)/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「野村靖(のむら やすし)写真」(山口県文書館蔵)。靖は入江九一の弟。兄弟共に最後まで松陰を支え続けた
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  • ※1 束荷(つかり)村(現在の光市)の農民の家に生まれ、少年時代に萩へ移った。本文※1へ戻る
  • ※2 「轟木武兵衛(とどろき ぶへえ)に復す」『吉田松陰全集』4より。他藩の藩士に宛てた安政5(1858)年10月8日付の松陰書簡に記されている。原文は「才劣り学おさなきも、質直にして華なし、僕頗(すこぶ)る之(こ)れを愛す」。本文※2へ戻る
  • ※3 久坂玄瑞(くさか げんずい)宛吉田松陰書状『吉田松陰全集』8より。安政5(1858)年6月19日付。写真参照。本文※3へ戻る
  • ※4 別名、通称、あだ名のこと。本文※4へ戻る
  • ※5 松陰の死後、尊王攘夷(じょうい)運動に奔走。京都の池田屋で新選組に襲われ、いったん逃れるが自刃した。本文※5へ戻る
  • ※6 他に、久坂玄瑞、高杉晋作(たかすぎ しんさく)、入江九一(いりえ くいち)。なお、九一の入塾は安政5(1858)年7月と他の3人より遅い。本文※6へ戻る
  • ※7 「乾(けん)、字は無咎(むきゅう)の説」『吉田松陰全集』4による。本文※7へ戻る
  • ※8 「子遠(しえん)に語(つ)ぐ」『吉田松陰全集』5より。子遠とは入江九一のこと。本文※8へ戻る
  • ※9 高杉晋作宛吉田松陰書簡『吉田松陰全集』8より。本文※9へ戻る
  • ※10 晋作と並ぶ「松下村塾の双璧」。松陰の妹・文(ふみ)の夫となった。本文※10へ戻る
  • ※11 「高杉暢夫を送る敍(じょ)」『吉田松陰全集』4による。本文※11へ戻る
  • ※12 「高杉暢夫を送る敍」『吉田松陰全集』4による。本文※12へ戻る
【参考文献】
海原徹『松下村塾の人びと』1993
海原徹『吉田松陰と松下村塾』1999
萩博物館編『松下村塾開塾150年記念 吉田松陰と塾生たち』2007
山口県教育会編『吉田松陰全集』4・8 1972
山口県教育会編『吉田松陰全集』5 1973
山口県教育会編『吉田松陰全集』10 1974など
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