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2015年3月13日号 vol.289
写真:萩市の松陰神社境内に現存する松下村塾。当時からこの場所にあった
第1回 教えることはできないが、君たちと共に学びたい
松下村塾とはどんな塾だったのかを紹介します。
- 2015年NHK大河ドラマ特別展「花燃ゆ」
- 維新資料140点を一挙公開。吉田松陰(よしだ しょういん)が塾生らに与え、現存する貴重な「松陰自賛肖像」6幅が県内外から史上初めて全てそろい、初日から4月27日(月曜日)までの期間限定で公開されます(この山口会場のみ)。
- 期間:4月18日(土曜日)から5月24日(日曜日)まで
- 場所:山口県立萩美術館・浦上記念館
幕末、吉田松陰(よしだ しょういん)が主宰した「松下村塾(しょうかそんじゅく)」。その名は、萩の郊外・松本村(松下村。まつもとむら)の塾であることに由来します(※1)。
松下村塾は松陰が始めた、と思われがちですが、実は天保13(1842)年、松陰の叔父・玉木文之進(たまき ぶんのしん)(※2)が開いたことに始まります。塾はいったん廃止され、その後、松陰の親戚・久保五郎左衛門(くぼ ごろうざえもん)(※3)が自宅で子どもたちに習字などを教え始め、松下村塾の名を引き継ぎます(※4)。
やがて海外への密航を図った罪で実家に蟄居(ちっきょ)していた松陰の元へ、その大胆さに好奇心をかき立てられたのか、教えを請いにこっそりと若者らが訪ねてくるようになります。それは安政3(1856)年のこと。学びに来る者は次第に増え、安政4(1857)年、実家の前にあった八畳一間の小屋を修復して塾舎とし、松陰はそこへ移り住みます。そうした中、松下村塾の名はいつしか松陰へ引き継がれたようです。
松陰は入塾する者に必ず「何のために学ぶのか」を問い、学ぶだけでは駄目で「実行が第一」と伝えました。藩校と異なり、定まった科目はなく、授業は塾生が来れば、いつでも行われました。師の教卓もなく、松陰は動き回って教えたようです。
何をどう学ぶかは塾生次第。松陰はこんな助言を与えています。「本を読み、心が動く箇所があったら抄録(※5)しなさい。今年の抄録は来年の愚となる。来年の抄録は再来年、自分のつたなさを教えてくれる」。塾生が記憶力の悪さを嘆くと「それはいいことだ。記憶力がいいと復習を怠り、ついに記憶力が悪い者にも劣るようになる」と励ましました(※6)。また、授業中、世界地図を離さなかった松陰。塾生との討論もよく行い、それはたいてい時事問題でした。
共に働き、共に学んだ、師と塾生の松下村塾
安政5(1858)年には、塾舎を増築することになり、松陰や塾生も出て大工を手伝いました。そのとき、塾生の品川弥二郎(しながわ やじろう)が屋根に上り、壁土を松陰から受け取る際、誤って松陰の顔に壁土を落としてしまいます(※7)。そのとき、松陰が「師の顔に泥を塗るのか」と冗談を言って皆を笑わせたといわれています。弥二郎は当時16歳。その前年9月に入塾していました。
同じころに入塾した人物が、初めて松陰に会ったときのことを後にこう語っています。「教えてくださいと言うと、『教えることはできないが、君たちと共に学びたい』と先生。(中略)我ら少年に先生はそんなふうに謙虚だった。翌日の夜、友人と行き、皆で本を読み話し合っていると、午前4時の鐘が鳴った。すると『今から寝てはもったいない。君たちは詩を作りますか。韻を一緒に考えましょう』と先生。皆、こたつに入り、あおむけになって詩を作った」(※8)。時を忘れ、夢中で共に学ぶ姿が浮かんできます。
塾生には、通ってくる者のほかに、遠方から来て長期間寄宿する者もいました。弥二郎は、家は近いものの、通わずに塾に寄宿し、自炊していました。ある日の弥二郎の食事は、豆腐の糟(かす)に塩を入れて水を加え、わずかに米を一つまみ加えたもの。松陰は兄嫁に「姉さん、品川はかわいそうに苦学をしている。これを持って行ってください」と、自分のおかずを運んでほしいと頼んだといいます(※9)。
松陰の実家も決して裕福ではありません。それでも、苦労しても学びたい塾生を松陰も家族も支えました。国禁を犯してまで海外への渡航を図り、見聞を広め、国を守ろうとした、ときに過激で突拍子もない師・松陰。塾生との絆は、共に働き、時を忘れて共に学び、食べ物も分かち合う、そんな松本村の小さな塾で、しっかりと育まれていったのでした。

「松下村塾食料月計」(山口県文書館蔵)の一部。松下村塾で米をついた量などの記録。松陰と同じ野山獄を出て、松下村塾で客分教師となった富永有隣(とみなが ゆうりん)の名もある
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- ※1 松陰は「松下村塾記」に村名を「松下邑(むら)」として、「塾係るに村名をもってす」と記している。
- ※2 松陰の父の弟。松陰を幼いころから厳しく指導した。
- ※3 松陰は杉(すぎ)家から吉田家へ養子に入っており、養母は、名義上、久保家の養女として吉田家に嫁いでいた。その関係で松陰と久保家とは親類。五郎左衛門の塾には、後に松陰の塾生となる吉田稔麿(よしだ としまろ)や伊藤博文(いとう ひろぶみ)も通っていた。
- ※4 「松下村塾記」による。
- ※5 要点を書き出すこと。
- ※6 塾生の一人、天野御民(あまの みたみ)「松下村塾零話」『吉田松陰全集』10による。
- ※7 「吉田松陰と松下村塾」『吉田松陰全集』別巻による。
- ※8 天野御民「松下村塾零話」による。ただし、この逸話を語ったのは、書を読むこと塾中第一流の少年と松陰から評された馬島甫仙(まじま ほせん)。
- ※9 福本義亮『吉田松陰の殉国教育』による。
- 【参考文献】
- 海原徹『吉田松陰と松下村塾』1999
- 萩博物館編『松下村塾開塾150年記念 吉田松陰と塾生たち』2007
- 福本義亮『吉田松陰の殉国教育』1933
- 山口県教育会編『吉田松陰全集』10・別巻 1974
- 山口県文書館編『山口県文書館所蔵アーカイブズガイド幕末維新編』2010など
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