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2015年2月27日号 vol.288
おもしろ山口学/吉田松陰と松陰を支えた家族たち

写真:松陰が萩から江戸へ送られる直前、塾生・松浦松洞(まつうら しょうどう)が描いた肖像に楫取素彦の発案で松陰が賛を入れた「吉田松陰自賛肖像」(松陰神社蔵)の一部

第5回 「留魂録」と家族への遺書から生まれた松陰神社
松陰が江戸へ送られてから処刑後までを紹介します。

特別展「吉田松陰が生まれた杉家とその家族-妹たちとの絆-」
吉田松陰(よしだ しょういん)と妹・文(ふみ)、母らとの深い絆などを約60点の貴重な資料を通じて紹介。
期間:10月13日(火曜日)まで
場所:松陰神社宝物殿「至誠館(しせいかん)」
「兄松陰と妹文-杉家の家族愛-」
文が久坂玄瑞(くさか げんずい)の死後も大切に持ち続けた幾通もの玄瑞からの手紙を、文と再婚した楫取素彦(かとり もとひこ)が装丁した「涙袖帖(るいしゅうちょう)」などを展示。涙袖帖は平成27(2015)年6月21日(日曜日)まで展示(予定)。
期間:平成28(2016)年9月4日(日曜日)まで
場所:萩博物館特設展示室

安政の大獄により、萩から送られた吉田松陰(よしだ しょういん)が江戸に着いたのは安政6(1859)年6月のこと。幕府の評定所(※1)の取り調べが始まると、松陰は「至誠(しせい)にして動かざるは未(いま)だ之(これ)有らざるなり(※2)」の信念に基づき、幕府の進むべき道や、幕府老中襲撃計画などまで自ら進んで陳述します(※3)。しかし、3度の取り調べを経ても至誠は幕府へ届かず、松陰は10月半ば、死罪を覚悟します。

松陰は家族らへ遺書「永訣書(えいけつしょ)」を、松下村塾(しょうかそんじゅく)の塾生らへは志を受け継いでほしいと伝える長い遺書「留魂録(りゅうこんろく)(※4)」をしたためます。松陰が斬首となったのは、留魂録を書き上げた翌日、10月27日のことでした。

松陰の死後間もなく、永訣書と留魂録が萩へ届きます。留魂録は久坂玄瑞(くさか げんずい)(※5)をはじめ塾生の手から手へ。そして志士としての行動へと駆り立てていく中、玄瑞ら何人もの塾生が亡くなり、留魂録の原本はいつしか行方不明になりました。

ところが、松陰の死から15年を経た明治7(1874)年5月、小田原にいた松陰の妹婿・楫取素彦(かとり もとひこ)(※6)の元へ、留魂録の原本に関する情報が、東京からの客人を通じてもたらされます。素彦の日記によれば、その留魂録は、松陰と同じ江戸の獄におり、流罪となった囚人・沼崎吉五郎(ぬまさき きちごろう)(※7)が、松陰自筆の中国の兵法書「孫子(そんし)」の写本とともにずっと所持してきたというもの。素彦に、留魂録がもう一つあることが伝わったのです(※8)

松陰を祀(まつ)るほこらの完成を見届けた母の死。そしてもう一つの「留魂録」が萩へ

松陰は獄中で吉五郎と親しくなり、師弟にも似た関係を築いていました。松陰は、留魂録を念のため二つ作り、吉五郎に託し、以前吉五郎に贈った孫子の写本には、新たに和歌を書き込みました。「吾(わ)が友は久保(くぼ)と久坂と小田むら(素彦のこと)よ これに送らん文をつたえよ(※9)」―。この留魂録などを友に届けてほしい、と。

吉五郎は松陰の死後、流罪となって、もう一つの留魂録などを15年間隠し持ち、ようやく許されて島を離れたのが明治7(1874)年のこと。素彦は東京からの客人と話したものの、なぜか自分で留魂録を入手しようとはせず、元塾生で神奈川県に出仕していた野村靖(のむら やすし)(※10)に手紙を書きます。塾生ではない自分より、塾生だった靖の方が留魂録を受け取るのにふさわしいと思い、入手を依頼したのかもしれません。

そしてその後、靖の元に吉五郎が現れます。留魂録などを渡し、次のように話します。「松陰から『郷里への遺書を書いたが阻まれて届かないことを恐れ、もう1通を汝(なんじ。吉五郎のこと)に託す』と頼まれたのです」。靖は感激し、留魂録などを受け取り、大切に自分の手元に置きますが、明治24(1891)年、海外へ行くことになり、万一の紛失を恐れ、松下村塾へ納めます(※11)

その前年、松下村塾の保存が決まって改修され、その隣に松陰を祀る小さなほこらが建てられていました。それは「私の首は江戸に葬り、家では私が用いた硯(すずり)と書を祀ってほしい(※12)」と記された松陰の家族宛ての遺書「永訣書」から生まれたもの。永訣書には、松陰が両親を思う和歌もつづられていました。「親思ふこころにまさる親こころ けふの音つれ何ときくらん(※13)」―。松陰がその歌を残し、亡くなって、31年。松陰の母は、松下村塾の改修を無事見届け、その数日後、この世を去りました。

小さなほこらはその後、松陰神社となり、留魂録はそこに納められました。松陰の誠は時を経ても、吉五郎を動かし、ふるさとの家族や友に伝えられ、現代を生きる私たちへと届いているのです。

「松陰が家族らに宛てた遺書「永訣書」(松陰神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

松陰が家族らに宛てた遺書「永訣書」(松陰神社蔵)。3人の妹へ、5月に申し置いたことを忘れないように、とも記してある
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松陰が塾生らに宛てた遺書「留魂録」(松陰神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

松陰が塾生らに宛てた遺書「留魂録」(松陰神社蔵)
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松陰神社宝物殿至誠館の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

松陰神社宝物殿至誠館。松陰自筆の書など、貴重な歴史資料が展示されている。留魂録のコーナーは必見
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  • ※1 幕府最高の裁判所。本文※1へ戻る
  • ※2 最上の誠の心を尽くして、事が動かなかったことは、いまだかつて無い、といった意味。中国の儒学者・孟子(もうし)の言葉。本文※2へ戻る
  • ※3 幕府はその襲撃計画を知らず、陳述に驚き、当初見られていた流罪から一転、死罪となった。本文※3へ戻る
  • ※4 そこには、次のようなことなどが書かれている。人の寿命には定めはなく、一生は四季のようなものだ。10歳、20歳で亡くなる者にも四季はある。私の30年の人生にも四季はすでに備わり、実りの時を迎えた。それが十分に実っていない籾(もみ)か、実る籾かは分からない。もし私を憐(あわ)れみ、志を継ぐ人があれば、今後も種子が絶えることはないだろう。本文※4へ戻る
  • ※5 松陰の妹・文(ふみ)の婿。高杉晋作(たかすぎ しんさく)と並ぶ「松下村塾の双璧」。元治元(1864)年「禁門の変」で自刃。本文※5へ戻る
  • ※6 素彦は当時、足柄県(現在の神奈川県西部)に出仕していた。本文※6へ戻る
  • ※7 元福島藩士。福島藩は現在の福島県福島市。本文※7へ戻る
  • ※8 このとき、客人から話を聞いただけなのか、留魂録の実物を見たのか、日記から明確には読み取れない。楫取素彦「檜荘(ひのきそう)日記」『吉田松陰全集』別巻による。本文※8へ戻る
  • ※9 この歌に詠まれた3人は、久保清太郎(せいたろう)、玄瑞、小田村伊之助(おだむら いのすけ。後の楫取素彦)。いずれも松陰の友であり、親族。本文※9へ戻る
  • ※10 松陰が野山獄に再び投じられた際も、松陰の指示で兄・入江九一(いりえ くいち)と共に奔走するなど、松陰を懸命に支え続けた。本文※10へ戻る
  • ※11 明治24(1891)年に書かれた、野村靖「先師松陰先生手蹟(しゅせき)留魂録後に書す」による。その手記には、吉五郎が現れたのは明治9(1876)年で、自分は神奈川県令(知事)だった、とある。ただし、靖が県令となったのは実際には明治11(1878)年で、靖の記憶違いと考えられる。本文※11へ戻る
  • ※12 硯は、現在の下関市などで作られていた赤間(あかま)硯。硯と安政5(1858)年11月6日付の父・叔父・兄宛の手紙が、松陰神社のご神体となっている。本文※12へ戻る
  • ※13 子が親を思う心よりも、親が子を思う心の方がずっと深い。今日の知らせ(処刑のこと)を親はどのような思いで聞くだろうか、といった意味。本文※13へ戻る
【参考文献】
松陰神社『松陰神社所蔵宝物図録』2009
萩博物館編『松下村塾開塾150年記念 吉田松陰と塾生たち』2007
前野喜代治「吉田松陰 留魂録の研究」『国士舘大学文学部人文学会紀要』2 1970
山口県教育会編『吉田松陰全集』6 1973
山口県教育会編『吉田松陰全集』10・別巻 1974など
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