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2015年2月13日号 vol.287
おもしろ山口学/吉田松陰と松陰を支えた家族たち

写真:田床山(たとこやま)から見た萩の町。中央、海に突き出した山の麓に萩城があった

第4回 至誠にして動かざるは未だ之有らざるなり
松陰が松下村塾を主宰したころから、江戸へ送られるまでを紹介します。

特別展「吉田松陰が生まれた杉家とその家族-妹たちとの絆-」
吉田松陰(よしだ しょういん)と妹・文(ふみ)、母らとの深い絆などを約60点の貴重な資料を通じて紹介。
期間:10月13日(火曜日)まで
場所:松陰神社宝物殿「至誠館(しせいかん)」
「兄松陰と妹文-杉家の家族愛-」
文が久坂玄瑞(くさか げんずい)の死後も大切に持ち続けた幾通もの玄瑞からの手紙を、文と再婚した楫取素彦(かとり もとひこ)が装丁した「涙袖帖(るいしゅうちょう)」などを展示。涙袖帖は平成27(2015)年6月21日(日曜日)まで展示(予定)。
期間:平成28(2016)年9月4日(日曜日)まで
場所:萩博物館特設展示室

吉田松陰(よしだ しょういん)が実家の敷地内の小屋を改装し、そこで若者たちを教えるようになったのは、安政4(1857)年11月のこと。松陰主宰の松下村塾(しょうかそんじゅく)の塾生は次第に増え、その数は判明しているだけで92人に上ります。

ところが、わずか1年1カ月後の安政5(1858)年12月、松陰は松下村塾を去ることになります。松陰が幕府老中の襲撃を計画し(※1)、それを知った萩藩の藩政府が松陰を再び野山獄に投じることにしたためです(※2)。そのとき父は病に伏していましたが、「一時の屈は万世(ばんせい)の伸なり(※3)」と松陰を励まし、野山獄へ送り出しました。

獄に入った松陰は、その後も幕府を批判し続けます。妹・文(ふみ)の婿となっていた久坂玄瑞(くさか げんずい)をはじめ当時江戸にいた塾生らは、松陰の身を案じ、過激な言動を控えてくださいと手紙を送ります。そうした声に松陰は「僕は忠義をする積(つも)り、諸友は功業をなす積り(※4)」と憤り、自分の決意を示すため、絶食を始めます。

驚いたのは両親や叔父たちです。筆を執り、「何とぞ父母や叔父らの意見を聞き、母が送った品を食べてください。己を捨て、同志の人に従ってください」と父。「野山やしき(野山獄)におられても無事でさえいてくれれば、それでよいのです。短慮をやめ、生き永らえてくださるよう祈っております」と母。両親らの真心にあふれた手紙は、松陰に水1杯と干し柿一つを口にさせ、絶食をやめさせます(※5)

かへらじと思ひ定めし旅なれば 一(ひと)しほぬるる涙松かな

しかし、無事でさえいてくれればと願っていた家族に、無情な知らせが届きます。安政6(1859)年5月、松陰を江戸に送るよう幕府から命令が下ったのです(※6)

兄・梅太郎(うめたろう)は毎日のように獄を訪ね、松陰を励まします。3人の妹、千代(ちよ)・寿(ひさ)・文は「心得になることを授けてほしい」と頼み、松陰はそれに応えて和歌を作ります。「こゝろあれや人の母たる人たちよ かゝらん事ハ武士の習(ならい)そ(※7)」。武士の母となる妹たちよ、私のように公のために身を尽くして命を落とすことは武士にとって当たり前のことなのだから、動じないよう、心していなさい、と。

松陰は、親友である、寿の夫・楫取素彦(かとり もとひこ)には決意を伝えます。「至誠(しせい)にして動かざるは未(いま)だ之(これ)有らざるなり(※8)」。自分は、この孟子(もうし)の言葉を実践しに江戸へ行く。ただ幕府の取り調べを受けるのではなく、最上の誠の心を尽くして自分の考えを主張し、幕府を動かすのだ、と。

江戸送りが翌日に迫った5月24日、松陰に実家へ帰って一泊してよいという許しが特別に出されます。その実家での最後の夜を、千代が後にこう語っています。「母が兄に向かって『江戸に行っても、どうかもう一度無事な顔を見せてくれよ』と申しますと、兄はにっこりとほほ笑みまして、『お母さん、見せましょうとも、必ず息災な顔をお見せ申しますから、安心してお待ちください』と事もなげに答えておりました(※9)」。

千代は塾生らから聞いた話として、獄に戻った松陰がいよいよ萩を出発し、郊外の「涙松(※10)」まで運ばれていったときのことも語っています。涙松とは、萩を旅立つ者は誰もがそこまで行くと、もう国の外れに来てしまった、再び帰ってこられるだろうかと思い涙したという峠の松の名。「兄もそこまで参りますと、『かへらじと思ひ定めし旅なれば一しほぬるる涙松かな(※11)』と詠んだというのです(※12)」。千代の言葉は、松陰が死を覚悟し、それでも実家では母を思い、振る舞っていた姿を浮かび上がらせてくれます。

最上の誠の心を尽くせば、相手を動かすことができる、そう信じたいと素彦に伝えた松陰。困難に何度直面しても、その考えを貫こうとしたのは、家族の至誠に一貫して支えられ続けていたからこそかもしれません。

「諸妹に遺した和歌」(松陰神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「諸妹に遺した和歌」(松陰神社蔵)。安政6(1859)年5月17日、松陰が3人の妹に遺した和歌
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「至誠」の一部(松陰神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「至誠」の一部(松陰神社蔵)。安政6(1859)年5月18日、松陰が楫取素彦に託した文
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「宗族に示す書」(松陰神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「宗族に示す書」(松陰神社蔵)。安政6(1859)年5月19日、松陰が甥(おい)・姪(めい)に杉家の家風を大事にするよう諭した書
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  • ※1 幕府が天皇の許可なく、日米修好通商条約に調印したことを知り、幕府老中を待ち伏せして襲撃することを計画した。本文※1へ戻る
  • ※2 重臣の周布政之助(すふ まさのすけ)は、投獄することで松陰が軽挙な行動を起こさぬようにして幕府から藩を守るとともに、松陰も守ろうとした。本文※2へ戻る
  • ※3 一時的に屈することは、永遠に長く伸びるもととなる、といった意味。「杉恬斎(すぎ てんさい)先生伝」『吉田松陰全集』10による。本文※3へ戻る
  • ※4 自分は幕政の失策を正す忠義をするのであって、君たちは名を上げたいのだ、といった意味。安政6(1859)年正月11日付の某(なにがし)宛の手紙。『吉田松陰全集』8による。本文※4へ戻る
  • ※5 安政6(1859)正月25日付の父、母、叔父よりの手紙。『吉田松陰全集』8による。本文※5へ戻る
  • ※6 幕府が松陰を江戸へ送らせたのは、「安政の大獄」で捕えた梅田雲浜(うめだ うんぴん)との関係を問うもので、このとき松陰の老中への襲撃計画などは知らなかった。本文※6へ戻る
  • ※7 安政6(1859)年5月17日の「諸妹(しょまい)に遺(のこ)した和歌」。なお、「武士の習そ」は「東行前日記」には「もののふの常」と書かれている。本文※7へ戻る
  • ※8 最上の誠の心を尽くして、事が動かなかったことは、いまだかつて無い、といった意味。中国の儒学者の言葉。本文※8へ戻る
  • ※9 児玉芳子(こだま よしこ。旧名は千代)「家庭の人としての吉田松陰」『吉田松陰全集』10による。一部、現代仮名遣いなどにして転載。本文※9へ戻る
  • ※10 「萩往還(はぎおうかん)」沿い、萩市椿(つばき)の涙松があった辺りは、涙松跡として、石碑が建立されている。本文※10へ戻る
  • ※11 もう帰ることはないと思いを定めた旅なので、雨の中、一層涙に濡れる涙松だなあといった意味。本文※11へ戻る
  • ※12 児玉芳子「家庭の人としての吉田松陰」『吉田松陰全集』10による。本文※12へ戻る
【参考文献】
海原徹『吉田松陰と松下村塾』1999
松陰神社『松陰神社所蔵宝物図録』2009
萩博物館編『松下村塾開塾150年記念 吉田松陰と塾生たち』2007
山口県教育会編『吉田松陰全集』8 1972
山口県教育会編『吉田松陰全集』10 1974など
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