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2015年1月23日号 vol.286
やまぐち幕末維新寄り道紀行

誕生地や旧宅地、寺社に石碑に記念館。山口県には、幕末の志士ゆかりの地がたくさん。
歴史好きのあなたに贈る、憧れの聖地から行く寄り道企画!
今回から2回にわたり、JR下関駅エリアで寄り道! 幕末の志士・高杉晋作(たかすぎ しんさく) (※1)が決起した長府の功山寺(こうざんじ)からJR下関駅までは、路線バスで美しい関門海峡を眺めながら約30分。JR下関駅周辺には、徒歩圏内に晋作ゆかりの地がいっぱい! 下関観光ガイドの会の平松資朗(ひらまつ しろう)さんのご案内で、さぁ! 行ってみましょう!

下関観光ガイドの会の平松さん
ご覧ください、この階段のインパクト! 123段(ひふみの段)と呼ばれる石段にひるみそうですが、ここは高杉晋作が奇兵隊旗揚げの軍旗を奉納し、武運を祈ったゆかりの地。行かずばなるまい! 正面の鳥居は、晋作をはじめ多くの志士たちを経済面で支援し続けた勤王商人・白石正一郎(しらいし しょういちろう)が寄進したものです。石段を上り切った境内には、七卿(しちきょう)落ち(※2)の道中姿を描いた画碑などがあります。晋作も戦勝祈願した神社だし、勝守(かちまもり)を買おうかな。
晋作は、身分を問わない有志による当時としては画期的な軍隊「奇兵隊」を創設しました。最初は、ここを奇兵隊の本営としたのですが、すぐに手狭になってしまうほど、たくさんの人々が参加したのだそうですよ。平松さんによれば、ここには、坂本龍馬(さかもと りょうま)、西郷隆盛(さいごう たかもり)、久坂玄瑞(くさか げんずい)、小田村伊之助(おだむら いのすけ。後の楫取素彦(かとり もとひこ))らも訪れ、大河ドラマの主人公・文(ふみ)さんも、明治3(1870)年に藩主夫妻と共にこの白石邸に宿泊したことがあるそうです。まさに激動の幕末・維新期の舞台となった場所なんですね。
ここは、晋作が功山寺挙兵後に襲撃した萩藩の出先機関があった場所です。当時、藩内は「幕府に従おうとする勢力」と「幕府と戦おうとする勢力」が激しく対立していました。「晋作は、武力で藩政府を改革するため功山寺で決起した後、ここへ押し掛けました」と平松さん。その後、三田尻(みたじり。現在の防府市三田尻)で藩の軍艦を奪ったのだそうです。晋作らしい電光石火の早業に、歴史の流れは大きく変わっていきました。
慶応2(1866)年6月から始まった幕長戦争(四境(しきょう)戦争)。幕府軍と比べ、兵の数には大きな差がありましたが、士気が高く、軍備の近代化も進めていた長州の戦いは優位でした。晋作は小倉口の戦いを指揮し、勝利を収めました。嚴島(いつくしま)神社の境内には、その戦利品として奇兵隊が小倉城から持ち帰った大太鼓があります。晋作が奉納したと伝わるこの太鼓は、かつて小倉城下に時を告げていたものだそうです。毎年9月第1土曜日に「太鼓祭」が開催されます。
小倉口の戦いに勝利した晋作でしたが、患っていた病(肺結核)の病状が進み、療養生活に。見舞いに訪れた井上聞多(いのうえ ぶんた(もんた)=後の井上馨(かおる))たちに、「ここまでやったから、これからが大事じゃ。しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」と繰り返したそうです。後世に残る大仕事の数々を成し遂げ、幕末動乱の世を大急ぎで駆け抜けた晋作は、この地で亡くなりました。満27歳でした。知人への手紙に、「死後、墓前にて芸妓(げいこ)を集めて三味線などを鳴らして、まつってください」と書き送った晋作にふさわしく、命日の4月14日には、にぎやかに碑前祭が行われます。
※1 松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生。号は東行(とうぎょう)。身分を問わず志のある者を募った奇兵隊(きへいたい)を創設
※2 「8月18日の政変」で萩藩と共に7人の公卿が京都を追放された事件

- JR下関駅エリア
- 所在地:
- 下関市竹崎町(大歳神社、白石正一郎宅跡)
- 上新地町(萩藩新地会所跡、嚴島神社)
- 新地町(高杉東行終焉の地)
- アクセス:
- JR下関駅から徒歩圏内
- 関連リンク:
- おもしろ山口学(2014年11月14日号 vol.282)「高杉晋作(第1回)」
- おもしろ山口学(2014年11月28日号 vol.283)「高杉晋作(第2回)」
- 下関観光ガイドの会(一般社団法人 下関観光コンベンション協会ホームページ)
- 下関市立長府博物館では、常設企画展「勤王商人 白石正一郎」を2月15日(日曜日)まで開催中です。下関市立長府博物館

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