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2015年1月23日号 vol.286
おもしろ山口学/吉田松陰と松陰を支えた家族たち

写真:松陰誕生地(団子岩)にある、吉田松陰・金子重輔の銅像

第3回 久坂玄瑞と妹・文の結婚
松陰の黒船乗り込み失敗から「松下村塾」を主宰し始めたころまでを紹介します。

特別展「吉田松陰が生まれた杉家とその家族-妹たちとの絆-」
吉田松陰(よしだ しょういん)と妹・文、母らとの深い絆などを約60点の貴重な資料を通じて紹介。
期間:平成27(2015)年10月13日(火曜日)まで
場所:松陰神社宝物殿「至誠館(しせいかん)」
「兄松陰と妹文-杉家の家族愛-」
期間:平成28(2016)年9月4日(日曜日)まで
場所:萩博物館特設展示室

幕末の思想家・吉田松陰(よしだ しょういん)。数々の無謀な行動で周囲を困惑させ、中でも有名なのが黒船に乗り込み、海外へ渡航を図った一件です。松陰は外国の脅威に対抗するには相手をよく知るべきだと考え、安政元年(1854)年3月、再来航した黒船に乗り込み、アメリカへ連れていってほしいと懇願します(※1)。しかし、アメリカ側から拒絶され、計画は失敗。潔く自首し、江戸の獄へ投じられます。

この一件には、松陰の父や兄・杉梅太郎(すぎ うめたろう)も困惑し、責任を感じて謹慎します。松陰が萩の野山獄へ送還されると、兄は差し入れを持って毎日のように野山獄へ。そうした支えもあって、松陰はくじけることなく、「二十一回猛士となる(※2)」、つまり「人生で21回の猛を振るう」と兄に手紙で宣言します。「そのうち3回の猛はすでに振るった(※3)」と松陰は言い、兄は屈しない弟に喜びつつも「しかし、後18回の猛とは、たまりません」と返信して松陰を笑わせます。

そんな強気の裏で、2歳下の妹・千代(ちよ)(※4)への手紙には素直な胸の内をさらしています。それは松陰が千代に長い手紙を書いていたところへ偶然、千代から好物のミカンなどと共に手紙が届いた夜のこと。すぐに読み、「あなたの心を思うと涙が止まらず、布団をかぶって寝たのですが、どうにも耐えかね、起きて手紙を繰り返し見て、いよいよ涙にむせび、一晩中眠れませんでした(※5)」とつづっています。妹を思って手紙を書いていた、その真心が妹に通じたように思えて、あふれる涙となったのでしょう。

家族一人ひとりに心を尽くした松陰の手紙

信じる道を突き進む自分を支えてくれる家族と、何通も手紙を交わした獄中の松陰。中には、どんな時も学ぼうとした松陰らしい、父宛てのものもあります。それは江戸の獄を思い出し、何時にかゆや薬湯などが支給されていたか、体を洗うため、おけの湯が月何回配られたか、身分でどう違ったかなど、図も入れて事細かに書いたもの。「獄の規則は誠に面白い」と書きつつ「野山獄は病人への配慮の点で江戸に劣る」とも批判(※6)。当時、盗賊改方(あらためかた)(※7)を務めていた父の役に立ちたい思いがあったようです。

松陰は年の離れた妹たちのことも獄中から心配し、助言を届けます。親友・楫取素彦(かとり もとひこ)(※8)の妻となり、長男を生んだ妹・寿(ひさ)へは「せっかちな性格を直し、柔和でおっとりとした母となって子どもを育ててください」と兄への手紙で伝言。13歳になった3番目の妹・文(ふみ)(※9)には「家事も少しはできるようになったでしょうか。合間をみて習字などに励むようにしてください」と母への手紙で伝言を託します。

安政2(1855)年12月、松陰は実家での蟄居(ちっきょ)となります。近隣の少年らが蟄居している松陰に、ひそかに学びに来るようになった翌年夏、久坂玄瑞(※10)から入門を請う手紙が届きます。松陰は若者らしく大言壮語する玄瑞の手紙を読んで可能性を感じ、志を試すべく、弱い論理を厳しく突く返事をあえて送ります。そうした手紙の3度の応酬にも屈せず、玄瑞はやがて松陰に入門。次第に塾生は増え、安政4(1857)年には松陰の「松下村塾(しょうかそんじゅく)(※11)」は形になり始めていました。

その年の12月、うれしいことが起きます。進取の気風にあふれるようになっていた玄瑞が文と結婚することになり、松陰は文に言葉を贈ります。「玄瑞は防長第一流の人物で天下の英才です。文は幼く、十分ではありません。しかし努力することが大事なのです。(中略)千代はよく働き、寿は大変賢い。文が生まれたのは遅く、私は最もふびんに思っています。書を読み、文の名に合う、玄瑞にふさわしい妻になってください(※12)」。

このとき玄瑞18歳、文15歳。人を見抜くことにたけていた松陰は、この言葉に文は奮起し、姉たちに負けぬよう、きっと努力する妹だ、と確信していたのでしょう。

安政2(1855)年正月みそか、松陰から父宛ての手紙(松陰神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

安政2(1855)年正月みそか、松陰から父宛ての手紙(松陰神社蔵)。図は江戸の獄舎。上から4番目の房に「寅(とら。松陰)これに在り」とある
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随筆集「丁巳幽室文稿」の中にある安政4(1857)年12月、松陰の「妹文久坂氏に適くに贈る言」(松陰神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

随筆集「丁巳幽室文稿」の中にある安政4(1857)年12月、松陰の「妹文久坂氏に適くに贈る言」(松陰神社蔵)。文一人に宛てては唯一のもの
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野山獄跡の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

野山獄跡。病になっていた金子重輔は、十分な手当てを求める松陰の訴えもむなしく、向かい側の岩倉獄で死去。松陰は悲しみ続けた
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  • ※1 萩の町人出身の金子重輔(かねこ じゅうすけ)と計画・実行。重輔は萩の岩倉獄で病死。なお、重輔は重之助(しげのすけ)とも書く。本文※1へ戻る
  • ※2 杉の字を「十・八・三」に分解して「二十一」。また、吉田の字を「十・一・口・口・十」に分解して「二十一回」。この後、これを松陰は号とした。「幽囚録附録」『吉田松陰全集』2による。本文※2へ戻る
  • ※3 東北へ行った際の脱藩、黒船が初来航した際に藩主へ出した提言書、黒船への乗り込みで3回の猛とした。本文※3へ戻る
  • ※4 このときすでに児玉(こだま)家に嫁いでいた。本文※4へ戻る
  • ※5 安政元(1854)年12月3日の妹・千代宛ての手紙。『吉田松陰全集』7による。本文※5へ戻る
  • ※6 安政2(1855)年正月みそかの父宛ての手紙。『吉田松陰全集』7による。本文※6へ戻る
  • ※7 盗賊の摘発などをつかさどる役職。本文※7へ戻る
  • ※8 藩医・松島(まつしま)家の3人兄弟の次男。小田村(おだむら)家の養子となった。このころは小田村姓。本文※8へ戻る
  • ※9 安政4(1857)年12月に久坂玄瑞(くさか げんずい)と結婚。死別し、明治時代に姉・寿の死去後、素彦と再婚。本文※9へ戻る
  • ※10 藩医・久坂家の次男として萩に生まれた。安政4(1857)年9月ごろ松陰の元に現れるようになった高杉晋作(たかすぎ しんさく)と共に松下村塾の双璧といわれるようになる。本文※10へ戻る
  • ※11 創始者は叔父の玉木文之進(たまき ぶんのしん)。本文※11へ戻る
  • ※12 「丁巳(ていし)幽室文稿」より「文妹久坂氏に適(ゆ)くに贈る言」『吉田松陰全集』4による。そこには、文が生まれたとき、叔父の文之進がとてもかわいがり、自分の名をとって文と名付けたことも明かされている。本文※12へ戻る
【参考文献】
公益財団法人毛利報公会『吉田松陰投獄後の松下村塾を託されていた 男爵 楫取素彦の生涯』2012
松陰神社『松陰神社所蔵宝物図録』2009
山口県教育会編『吉田松陰全集』2 1973
山口県教育会編『吉田松陰全集』4、7 1972
山口県教育会編『吉田松陰全集』9 1974など
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