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2014年12月26日号 vol.285
おもしろ山口学/吉田松陰と松陰を支えた家族たち

写真:全国各地を旅した松陰。城下町・萩と三田尻(みたじり。現在の防府市)を結ぶ街道「萩往還(はぎおうかん)」も何度も往来した

第2回 私の計画はしばしばつまずく。しかし志はますます盛んになる
江戸へ出た松陰と楫取素彦との友情を紹介します。

「兄松陰と妹文-杉家の家族愛-」
文(ふみ)が久坂玄瑞(くさか げんずい)の死後も大切に持ち続けた幾通もの玄瑞からの手紙を、文と再婚した楫取素彦(かとり もとひこ)が装丁した「涙袖帖(るいしゅうちょう)」などを展示。涙袖帖は平成27(2015)年6月21日(日曜日)まで展示(予定)。
期間:平成28(2016)年9月4日(日曜日)まで
場所:萩博物館特設展示室
特別展「吉田松陰が生まれた杉家とその家族-妹たちとの絆-」
吉田松陰(よしだ しょういん)と妹・文、母らとの深い絆などを約60点の貴重な資料を通じて紹介。
期間:平成27(2015)年10月13日(火曜日)まで
場所:松陰神社宝物殿「至誠館(しせいかん)」

萩に生まれ、幕末史に大きな足跡を残した吉田松陰(よしだ しょういん)。初めて江戸へ遊学に旅立ったのは嘉永4(1851)年、22歳のときのことでした。

江戸に着いた松陰は、ふるさとの家族へ度々手紙を出します。そうした手紙の一つに次のような文があります。「普段の料理は金山寺みそと梅干しに限るようにしました。お国の金銭を江戸へまくようなことは恐れ多いことです(※1)」。家族の生活は決して豊かではなく、萩藩も財政再建中で倹約を藩内に通達しており、松陰も倹約を誓います。

このころ松陰は「費用録」と題した金銭出納簿を付け始めていました。日々の出費をたどっていくと確かに質素なのですが、梅の実、金山寺みそ、ちまき、餅、いり豆、らっきょう、煮豆、うどん、そば、ところてん、団子…と、どうしても欠かせない食費の記載が目に付いてしまいます。とりわけ餅は何度も登場していることから、松陰の好物だったのかもしれません。費用録は5カ月ほどで筆がおかれ、おそらくそのとき記録を振り返った松陰が書いたのでしょう、表紙に次のような言葉が記されています。「口腹(飲食のこと)の欲(中略)。この記録を見ると自分自身にがっかりする」―。

松陰の妹・寿(ひさ)と楫取素彦(かとり もとひこ)の結婚

2歳下の妹・千代(ちよ)によれば「いつも歩くときに書物をたくさん懐に入れるので着物の一方が曲がってしまい、背中の縫い目が肩のところへきていた(※2)」というほど勉強熱心だった松陰。江戸で学ぶ中で他藩の友や、同じ萩出身の生涯の友に巡り合います。

その生涯の友とは、一つ年上の楫取素彦です(※3)。松陰は江戸到着間もない4月、叔父宛ての手紙に「江戸には小田村(当時の素彦)ら優れた学者が何人もいるので好都合です(※4)」と書いており、素彦との出会いを楽しみにしていたことがうかがえます。やがて二人は時事問題を語り合うようになり、友情を深めていきます。

ところが、その年の暮れ、事件が起きます。それは松陰が他藩の友・宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)(※5)と、海防の現状を知るため、東北への旅を計画したことに始まります。約束した出発日が迫る中、藩の都合で通行手形の発行が遅れていることが判明。それでも松陰は信義に反することをしては長州の恥だ、と考え、友との約束を優先し、脱藩の罪を覚悟の上で、通行手形を持たないまま、出発を敢行してしまったのです(※6)

その直前、松陰は素彦らと会っていましたが、出発のことは伏せていました。松陰は旅先で、素彦らからそのことを厳しく責める手紙を受け取り、日記にこう書きます。「打ち明けて相談したら(素彦らも)罪に問われると考えたのに(※7)」。素彦らからの手紙で速やかに戻るよう諭された松陰は、やがて予定を早め、嘉永5(1852)年4月、江戸に帰着。それを知った素彦はすぐ駆け付け、酒を傾けて松陰の帰りを喜びます。

松陰は旅を通して、北の海で外国船の出没が増えている現状を知り、各地で民衆の窮状を見て物事を民衆の目で見る大切さを学んだものの、藩の規則を破った松陰に下されたのは即時帰国の命令でした。ところが松陰は落ち込むどころか、「私の計画はしばしばつまずいてしまう。しかし志はますます盛んだ(※8)」と向学心を強くします。帰国後には藩士の身分を剥奪されますが(※9)、松陰を高く評価していた藩主から遊学を許され、嘉永6(1853)年1月再び江戸へ。一方、素彦は4月、萩へ帰ります。

8月、松陰に兄から手紙が届きます。それは9歳下の妹・寿と素彦との結婚を知らせたものでした。松陰は返信します。「久しぶりの故郷からの手紙を得て繰り返し巻き返し熟読しました。妹・寿が小田村氏へ嫁いだとのこと。本当に喜ばしいことです(※10)」。

本気でいさめ、喜んでくれる親友・素彦と家族となった松陰。その絆はこの後、一層強いものになっていきました。

嘉永4(1851)年4月20日付、松陰から父・兄宛ての手紙(萩博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

嘉永4(1851)年4月20日付、松陰から父・兄宛ての手紙(萩博物館蔵)。聴覚や言葉が不自由な弟が治療を受けると聞き、話せるようになってほしいとつづっている
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嘉永4(1851)年5月5日付、松陰から父ら宛ての手紙(萩博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

嘉永4(1851)年5月5日付、松陰から父ら宛ての手紙(萩博物館蔵)。1年の遊学では何も成し遂げられないので延長したいと藩の役人に申し出たと書いている
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松陰の兄・杉民治写真(萩博物館蔵)/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

松陰の兄・杉民治(みんじ)写真(萩博物館蔵)。通称は梅太郎。幼いころ、弟の松陰と共に学び、その後、困難に何度も直面した松陰を支え続けた
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  • ※1 嘉永4(1851)年5月5日付の父・叔父・兄宛ての手紙。『吉田松陰全集』7による。本文※1へ戻る
  • ※2 児玉芳子(こだま よしこ。旧名は千代)「家庭の人としての吉田松陰」『吉田松陰全集』10による。本文※2へ戻る
  • ※3 藩医・松島(まつしま)家の3人兄弟の次男。小田村(おだむら)家の養子となった。松陰より1年早く江戸に来ていた。なお、兄・松島剛蔵(ごうぞう)は洋学を学び、藩の海軍所を創設した。本文※3へ戻る
  • ※4 嘉永4(1851)年4月13日付の叔父・玉木文之進(たまき ぶんのしん)宛ての手紙。『吉田松陰全集』7による。本文※4へ戻る
  • ※5 肥後国(ひごのくに。現在の熊本県)の志士。本文※5へ戻る
  • ※6 同行者の一人の目的は、敵討ち。そのため出発日を赤穂義士が討ち入りを果たした日の12月15日とした。脱藩してまで旅を決行する松陰は人目をごまかすためか、前日一人で出発し、合流。なお、藩は7月には松陰の旅を許可していたが、通行手形の発行が遅延していた。通行手形は、他国を旅行する際、関所などで示す身分証明書として必要だった。本文※6へ戻る
  • ※7 「東北遊日記」『吉田松陰全集』9による。本文※7へ戻る
  • ※8 「東北遊日記」『吉田松陰全集』9による。本文※8へ戻る
  • ※9 実父・杉百合之助(すぎ ゆりのすけ)の「育(はぐくみ)」となって実家に引き取られた。育とは家督に関係のない養子のこと。本文※9へ戻る
  • ※10 嘉永6(1853)年8月15日付の兄・杉梅太郎(うめたろう)宛ての手紙。『吉田松陰全集』7による。なお、寿は明治14(1881)年に死去。素彦は2年後、寿の妹・文(ふみ。美和子(みわこ))と再婚する。本文※10へ戻る
【参考文献】
海原徹『江戸の旅人吉田松陰』2003
公益財団法人毛利報公会『男爵 楫取素彦の生涯』2012
萩博物館編『松下村塾開塾150年記念 吉田松陰と塾生たち』2007
萩博物館編『楫取素彦と幕末・明治の群像』2012
山口県教育会編『吉田松陰全集』7、9、10、別巻 1974など
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