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2014年12月12日号 vol.284
おもしろ山口学/吉田松陰と松陰を支えた家族たち

写真:「樹々亭」があった松陰誕生地。敷石は間取りを示す。杉家はここから「清水口(しみずぐち)」へ、さらに「新道」(現在の松陰神社境内)へ転居した

第1回 心が動くきっかけは旅することで得られる
松陰を支えた明るい母、旅を通じて実感した兄弟妹たちとの絆などを紹介します。

特別展「吉田松陰が生まれた杉家とその家族-妹たちとの絆-」
吉田松陰(よしだ しょういん)と妹・文(ふみ)、母らとの深い絆などを約60点の貴重な資料を通じて紹介。3期に分けて展示替えを実施。夢の話を書いた「西遊日記」や敏三郎(としさぶろう)の写真は平成27(2015)年2月10日(火曜日)まで。
期間:平成27(2015)年10月13日(火曜日)まで
場所:松陰神社宝物殿「至誠館(しせいかん)」
「兄松陰と妹文-杉家の家族愛-」
文が久坂玄瑞(くさか げんずい)の死後も大切に持ち続けた幾通もの玄瑞からの手紙を、文と再婚した楫取素彦(かとり もとひこ)が装丁した「涙袖帖(るいしゅうちょう)」などを展示。涙袖帖は平成27(2015)年6月21日(日曜日)まで展示(予定)。
期間:平成28(2016)年9月4日(日曜日)まで
場所:萩博物館特設展示室

幕末、松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰し、多くの志士を育てた吉田松陰(よしだ しょういん)。松陰自身、厳しくも明るい大家族の中で育った人でした。松陰が生まれたのは天保元(1830)年のこと。萩藩士・杉百合之助(すぎ ゆりのすけ)と瀧(たき)(※1)の次男として、城下町・萩の郊外、護国山の麓「団子岩」にあった山荘「樹々亭(じゅじゅてい)(※2)」で生まれました。その家は小さいながらも城下を一望できる地にありました。

松陰の幼名は、虎之助(とらのすけ)(※3)。2歳上の梅太郎(うめたろう)をはじめ、2歳下の千代(ちよ)、9歳下の寿(ひさ)、11歳下の艶(つや)、13歳下の文(ふみ)、15歳下の敏三郎(としさぶろう)と、兄弟は虎之助を入れて7人(※4)。両親は困っている人を放っておけない性分で、介護が必要になった親戚なども迎え入れ、多いときには10人以上が小さな家に同居していました。しかし、杉家は禄(ろく)の少ない貧乏所帯。田畑を耕し、山で木を切り、後に父・百合之助が仕事で家を離れると、母・瀧が馬を使って農耕にいそしみ、家計を支えました。

そんな杉家が大切にしたのが教育でした。百合之助は、人を訪ねても無駄話はせず、さっさと帰り、寸暇を惜しんで読書したという人(※5)。畑仕事には、梅太郎や虎之助も連れて行き、畑で素読を教えました。

虎之助は藩の兵学師範だった叔父の吉田家を幼くして継いだため、同じ流派の兵学者だった、もう一人の叔父・玉木文之進(たまき ぶんのしん)(※6)からも学問を教わりました。文之進は厳しい人で、虎之助の物覚えが悪いと本をすぐ取り上げ、ひどいときには机と虎之助とを引き抱えて外に投げ出したという激烈ぶり(※7)。瀧は文之進らからあまりにも厳しく教育され、それでも逃げようとしない虎之助を見て、「早く座を立てば、そんな目に遭わずに済むのに、なぜ虎之助はためらうのか」と歯がゆがったといいます(※8)

冗談好きの母と、学ぶことを共に楽しんだ兄・弟・妹たち

大家族で貧しく、勤勉で厳格。そんな杉家のムードメーカーは瀧でした。瀧は冗談が好きで、後年のこととして次のような逸話があります。それは梅太郎の嫁・亀子(かめこ)が蚊帳(かや)を破ってしまったときのこと。亀子がため息をつくと、瀧が「破れた蚊帳ほどめでたいものはない。『つる』と『かめ』とが舞いおりる」という意味の、「蚊帳をつる」と「鶴」、「蚊め」と「亀子」を掛けた狂歌を詠んで笑わせた(※9)、というのです。

楽天家の母に支えられ、父と叔父の厳しさに耐え、成長した松陰(虎之助)。嘉永3(1850)年21歳のとき、九州を巡る旅に出ます。それは長州から出る初めての旅。訪問先でアヘン戦争などの書物をむさぼるように読み、洋式砲術を学び、オランダ船に乗り、欧米列強の脅威に衝撃を受けます。そして旅日記にこう記します。「心が動くきっかけは旅することで得られる」―。松陰はその後、全国各地を旅し、見聞を広めていきます。

そんな九州の旅の途中、松陰はまどろみ、ある夢を見ます。それは生まれ育った山荘「樹々亭」でのこと。夜、兄と父と漢詩を読んで唱和し、眠りに就いたところ、幼い妹や弟が群がって来て「自分たちにも読んで」とせがむので、起きて、皆で唱和した、と(※10)。夢とはいえ、似たことは実際にあったのでしょう。幼い兄弟妹とも共に学ぶことを楽しんだ、ほのぼのとした光景が浮かんできます。

松陰にとって初めての旅は、行動こそ大事であることを学ぶとともに、家族を思い、ホームシックにかかった旅でもあったのでした。

「西遊日記」(松陰神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

松陰が九州遊学の日々を記した「西遊日記」(松陰神社蔵)。左ページに夢の話が記されている(本文参照)
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「杉敏三郎写真」(松陰神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「杉敏三郎写真」(松陰神社蔵)。末っ子の敏三郎は、松陰の顔に最も似ていたという
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「母瀧肖像」(松陰神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「母瀧肖像」(松陰神社蔵)。家に病人が多く、みんなの心が休まるよう、風呂を毎日たいたという
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  • ※1 父は、阿川(あがわ)毛利(もうり)家の家臣で、阿川毛利家の萩の別邸の管理や馬を診療する仕事をしていた。滝部(たきべ。現在の下関市豊北(ほうほく)町)にも家があった。本文※1へ戻る
  • ※2 かつてある俳人の山荘だった。田耕(たすき。現在の下関市豊北町)に生まれ、全国を旅した俳人・田上菊舎(たがみ きくしゃ)が樹々亭と命名。本文※2へ戻る
  • ※3 松陰の実名(じつみょう)は矩方(のりかた)。幼名は虎之助(とらのすけ)、大次郎(だいじろう)、松次郎(まつじろう)、寅次郎(とらじろう)と変わった。松陰は号。本文※3へ戻る
  • ※4 梅太郎は、後に民政に尽くし、藩主から「民治(みんじ)」の名を与えられた。千代は萩藩士・児玉(こだま)家に、寿は楫取素彦(かとり もとひこ)に嫁いだ。三女は早世。文は久坂玄瑞(くさか げんずい)と結婚するが死別し、明治時代に姉・寿の死去後、素彦と再婚。敏三郎は聴覚が不自由で、松陰は九州遊学の際、熊本の加藤清正(かとう きよまさ)の墓所に参り、弟が言葉を話せるよう祈った。敏三郎は字がうまく、読書を好んだという。本文※4へ戻る
  • ※5 「杉恬斎(てんさい)先生伝」『吉田松陰全集』10による。梅太郎に「本を読まず、話ばかりをすれば、話す事は尽きてしまうぞ」とも語ったという。本文※5へ戻る
  • ※6 松下村塾の創始者。本文※6へ戻る
  • ※7 『吉田松陰之殉国教育』による。本文※7へ戻る
  • ※8 「松陰先生の令妹を訪ふ」『吉田松陰全集』10による。そこには「寅次郎」とあるが寅次郎に改めるのは後のこと。令妹とは芳子(よしこ。旧名は千代)。本文※8へ戻る
  • ※9 『吉田松陰をめぐる女性たち』による。そこに掲載された狂歌は「やぶれかや程目出度(めでたき)ものはなし つるとかめが舞い下る」。本文※9へ戻る
  • ※10 「西遊日記」『吉田松陰全集』9による。本文※10へ戻る
【参考文献】
木俣秋水『吉田松陰をめぐる女性たち』1980
熊井清雄「松陰の母・滝子刀自と滝部ゆかりの父の生家・村田家」『和海藻(にぎめ)』18 2002
萩博物館編『松下村塾開塾150年記念 吉田松陰と塾生たち』2007
広瀬敏子『松陰先生にゆかり深き婦人』2014
福本義亮『吉田松陰之殉国教育』1933
山口県教育会編『吉田松陰全集』9、10 1974など
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