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2014年11月28日号 vol.283
おもしろ山口学/高杉晋作 -逸気俊才 奔牛のごとき-

写真:「高杉晋作所用道中三味線」(下関市立東行記念館蔵)。さおを分解して胴に収納できる細工がされている

第2回 動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし
藩政府に異を唱え、決起した幕末の志士・高杉晋作を紹介します。

高杉晋作決起150年記念特別展「晋作決起 -長州復権への道-」
高杉晋作(たかすぎ しんさく)が決起の際に着用した具足一式や、野村望東尼(のむら ぼうとうに。もとに)宛て晋作書状など、県内外の貴重な資料を展示。
期間:12月7日(日曜日)まで
場所:下関市立東行記念館
高杉晋作決起150年記念特別展「晋作決起 -元治の大局-」
県内外の貴重な資料を展示。元治元(1864)年11月上旬と推測される、藩政府による晋作らへの斬罪状写なども展示。
期間:12月7日(日曜日)まで
場所:下関市立長府博物館

元治元(1864)年は、長州勢が国内外から追い詰められ、さまざまな困難に直面した年でした。そのうちの一つ、英・仏・米・蘭の四カ国連合艦隊による下関来襲事件は、高杉晋作(たかすぎ しんさく)らによる休戦、そして講和により解決されます。

しかし、困難はそれだけではなく、「禁門の変(※1)」の罪を問われ、朝廷の命を受けた幕府から諸藩に長州追討が命じられます。そのため、藩政府内では、それまで藩政を率いた周布政之助(すふ まさのすけ)(※2)らの一派が責任を問われて失脚し、征長軍に誠意を尽くして恭順・謝罪すべきとする、いわば保守的な一派が取って代わります。新たな藩政府は晋作が創設した「奇兵隊(※3)」をはじめ諸隊(※4)に解散を命じ、さらに旧藩政府の要人を投獄していきます。

晋作は旧藩政府を率いた政之助らから高く評価され、起用されてきた人物でした。晋作にも身の危険が迫り、11月初め、九州へ脱出します(※5)

やがて藩政府は征長軍の攻撃を延期させるため3人の家老を切腹させ、征長軍の解兵条件である藩主父子の謝罪状を征長軍に提出します。それを潜伏先で知った晋作は「胸中、焼けるがごとく(※6)」と無念さを募らせ、長州の「国辱をそそぐため馬関(現在の下関市)へ帰る(※7)」ことを決意します。

死んだら天満宮のようになって赤間関の鎮主となる

帰ってきた晋作は、このとき政権を握っていた藩政府員を退けることを目指し、長府(現在の下関市長府)にいた諸隊を訪ね、共に決起を、と呼び掛けます。しかし、諸隊の幹部は、諸隊の存続や旧藩政府員の復職などを求めて懸命に藩政府と交渉中で、隊士らは晋作の訴えに応じません。諸隊幹部らは、晋作に思いとどまるよう懇願します。

それでも晋作は12月15日夜、決起します。晋作に応じたのは、連合艦隊との交渉で共に動いた伊藤博文(いとう ひろぶみ)(※8)をはじめ「力士隊」「遊撃隊」の有志らわずか数十人でした。晋作は具足を身に着け、まず長府の功山寺へ。そこには「8月18日の政変(※9)」で萩藩と共に京都から追放された五卿(※10)が滞在していました。晋作らは五卿にあいさつして気勢を上げ、藩政府の改革などを訴えるため、新地会所(※11)へ押し掛けます(※12)。さらに三田尻(みたじり。現在の防府市三田尻)へ行き、藩の軍艦を奪います。

そのとき萩には、征長軍側の使者が、萩藩が朝廷・幕府に謝罪の態度を示しているかどうか、確認に訪れていました。晋作の決起などで焦った藩政府は諸隊追討を決めるとともに、旧藩政府員を次々と投獄・処刑し(※13)、藩内は鎮静している、と示します。その結果、征長軍は27日、萩藩は謝罪していると捉え、解兵を宣言します。

慶応元(1865)年1月2日、旧藩政府員の処刑を知った晋作らは兵を挙げ、新地会所を襲撃。そして、藩政府と戦うことを決意していた諸隊と合流。この内戦を契機に清末(現在の下関市清末地区)藩などが周旋を図り、萩藩の藩論は、幕府に恭順するが、もし訳もなく攻めてきたら死を決して防戦する「武備恭順」に統一されました。

晋作は決起に際し、勝利に確信があったわけではなく、「死んだら天満宮(※14)のようになって赤間関(下関)の鎮主となる(※15)」と死を覚悟した手紙を知人へ送っていました。そこには、旅に三味線も携帯するほど粋な志士だった晋作らしい言葉もありました。「死後、墓前にて芸妓(げいこ)を集めて三味線などを鳴らして、まつってください」と。

晋作は決起の3年後、病気で亡くなります。共に動いた博文は後に晋作をこう評しています。「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし(※16)」。彼らの決起は結果的に藩論を統一へと導き、その後、時代を動かす渦を生むことになったのでした。

功山寺高杉晋作像の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

功山寺高杉晋作像
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「高杉晋作所用瓢(ひさご)」(下関市立東行記念館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「高杉晋作所用瓢(ひさご)」(下関市立東行記念館蔵)。酒を好んだ晋作。この瓢を愛用し、山県有朋(やまがた ありとも)に一度贈ったが、取り返した
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高杉晋作の墓の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

高杉晋作の墓。隣には、奇兵隊軍監・福田侠平(ふくだ きょうへい)の墓。決起の日、侠平は、晋作の馬の前で雪の中にひざまずき、「事を共にする。しかし今日は止めてほしい」と懇願したという
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  • ※1 前年の「8月18日の政変」について冤罪(えんざい)を訴えるべく、元治元(1864)年、来嶋又兵衛(きじま またべえ)や家老らが京都へ進発し、朝廷に嘆願を重ねたが受け入れられず、7月19日、京都御所内の会津勢らと戦って敗退した事件。本文※1へ戻る
  • ※2 萩藩士。激動期の萩藩を藩政指導者として支えた。この年の9月に自刃。本文※2へ戻る
  • ※3 身分を問わない有志による当時としては画期的な軍隊。本文※3へ戻る
  • ※4 幕末維新期に萩藩や支藩で結成された、藩士や庶民からなる軍事組織。本文※4へ戻る
  • ※5 筑前(現在の福岡県)の勤皇歌人・野村望東尼(のむら ぼうとうに。もとに)らにかくまわれた。本文※5へ戻る
  • ※6 佐世八十郎(させ はちじゅうろう、やそろう)、後の前原一誠(まえばら いっせい)宛て、慶応元(1865)年3月と推測される晋作書簡から。本文※6へ戻る
  • ※7 同上の書簡から。本文※7へ戻る
  • ※8 晋作と同じ松下村塾(しょうかそんじゅく)の塾生。明治維新後、初代内閣総理大臣となった。本文※8へ戻る
  • ※9 萩藩の尊王攘夷(じょうい)派と結びついた公卿(くぎょう)らに朝廷を動かされている現状に危機感をもった孝明(こうめい)天皇と鹿児島藩、会津藩などによって行われた政変。本文※9へ戻る
  • ※10 5人の公卿。当初は7人だったが、すでに1人は長州を離れ、1人は死去。本文※10へ戻る
  • ※11 現在の下関市上新地町にあった萩藩の出先機関。本文※11へ戻る
  • ※12 萩藩士が萩藩重臣へ報告した元治元(1864)年と推測される12月17日付注進状による。本文※12へ戻る
  • ※13 吉田松陰(よしだ しょういん)の妹の夫・楫取素彦(かとり もとひこ)の実兄で藩の海軍所を率いた松島剛蔵(まつしま ごうぞう)も斬首された。素彦も投獄されたが翌年、出獄できた。本文※13へ戻る
  • ※14 菅原道真(すがわら みちざね)をまつる神社。道真は平安時代、中傷によって左遷され、死去。その怒りが天に満ち、災いをもたらすようになったとされ、冤罪をそそぐ神などとしてあがめられるようになった。本文※14へ戻る
  • ※15 晋作を支えた下関の商人・白石正一郎(しらいし しょういちろう)の弟、長府藩士の大庭伝七(おおば でんしち)宛て、元治元(1864)年12月中旬と推測される晋作書簡より。本文※15へ戻る
  • ※16 下関市吉田の晋作の墓のすぐ近くに立つ「高杉東行(とうぎょう)碑」の銘文より。本文※16へ戻る
【参考文献】
一坂太郎編『高杉晋作史料』1 2002
下関市立長府博物館『晋作決起-元治の大局』2014
末松謙澄『防長回天史』6第4編-下1991など
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