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2014年11月14日号 vol.282
おもしろ山口学/高杉晋作 -逸気俊才 奔牛のごとき-

写真:連合軍に占拠された下関の前田砲台を撮影した「前田砲台低台場占拠図」(下関市立長府博物館蔵)(左)。高杉晋作写真(下関市立東行記念館蔵)(右)

第1回 座敷牢から四カ国連合艦隊と講和の大舞台へ
長州の危機に藩から白羽の矢を立てられ活躍した幕末の志士・高杉晋作を紹介します。

高杉晋作決起150年記念特別展「晋作決起 -長州復権への道-」
高杉晋作(たかすぎ しんさく)が長府功山寺において決起した際に着用していた具足一式や、晋作の書状など、元治元(1864)年12月の「晋作決起」のころの資料を中心に展示。
期間:12月7日(日曜日)まで
場所:下関市立東行記念館
高杉晋作決起150年記念特別展「晋作決起 -元治の大局-」
「禁門の変」から「第一次長州征討」へという幕末史の中で晋作「決起」の意義を探る。萩・長府・徳山・清末藩と岩国吉川(きっかわ)家からなる長州の幕末の当主の肖像画が勢ぞろいするほか、県内外の資料を展示。
期間:12月7日(日曜日)まで
場所:下関市立長府博物館

萩藩士の家に生まれ、吉田松陰(よしだ しょういん)(※1)に学び、久坂玄瑞(くさか げんずい)(※2)と並ぶ松下村塾の双璧といわれた高杉晋作(たかすぎ しんさく)。ある塾生仲間は4人の塾生を例えて「放れ牛、烏帽子(えぼし)(※3)、木剣、棒」を描き、そのうち放れ牛が晋作で「逸気俊才。奔牛のごとき」と語ったといいます(※4)

気風に優れ俊才で奔放。そんな晋作は藩主父子からも高く評価された人物でした。文久3(1863)年5月、血気にはやる玄瑞らが関門海峡で攘夷(じょうい)(※5)を決行し、外国の軍艦からの反撃で苦境に陥ると、晋作は藩主父子から起用され、身分を問わない有志による当時としては画期的な軍隊「奇兵隊」を創設します。

藩はその後、京都での「8月18日の政変(※6)」、翌年7月には「禁門の変(※7)」と苦難が相次ぎ、さらにそのころ、英・仏・米・蘭の四カ国連合艦隊が下関に来襲(※8)するという知らせが届きます。

晋作はその時、藩に無断で京都へ行った脱藩の罪(※9)で萩の自宅の座敷牢(ろう)にいました。そこへ山口の藩政府から呼び出しがあり、連合軍との講和に当たってくれと命じられます。晋作は湯田の宿にいた伊藤博文(いとう ひろぶみ)(※10)を訪ね、困惑したのか、こう語ったといいます。「何だかわけが分からぬ。これから馬関(ばかん。現在の下関市)へ出て行ってみようじゃないか」(※11)。博文は前年、藩によって送り出されて英国へ密留学した5人の一人。無謀な攘夷を止めるべく、井上馨(※12)と急ぎ帰国していました(※13)。2人は藩政府に和議を建言。帰国前から、旧知の晋作を仲間に引き入れようとも決めており、馨は座敷牢にいた晋作を訪ね、その起用を藩政府に請い、それが実っての晋作の出牢でした。

家老の養子「宍戸刑馬(ししど ぎょうま)」と偽り、「悪魔のように傲然と」登場

ところが、晋作と博文が馬関の現状を確かめに行く途上の8月5日、長州よりも近代的軍備に勝る十七、八隻もの連合艦隊による下関砲撃が始まってしまいます。連合軍の兵士らは海峡沿いの村に上陸。海岸に十数キロメートルにわたって設けられていた長州の砲台は、砲撃開始から数日で占拠されます。

8日、晋作は藩主から拝領した直垂(ひたたれ)(※14)を着て、頭には烏帽子をかぶり、家老の養子「宍戸刑馬」という偽名を用い、休戦交渉の正使として連合艦隊の旗艦に現れます。傍らには通訳として博文と馨。このときの晋作について英軍艦の通訳アーネスト・サトウ(※15)がこう書き残しています。「艦上に足を踏み入れた時には悪魔のように傲然としていたのだが、だんだん態度がやわらぎ、すべての提案を何の反対もなく承認してしまった」(※16)。当初、艦上の張り詰めた気配からか、小柄な晋作が悪魔のようだったといい、晋作の態度が和らいだのは連合国軍から藩主の署名入り委任状を求められたものの持っておらず、それでも話を進める必要があったからでしょう。晋作の交渉は実り、休戦が実現します。

晋作と博文は委任状作成のため、藩主世子がいた船木(現在の宇部市船木)へ。ところが、講和交渉をしていると知った急進的な尊王攘夷派から、2人は命を狙われ、雲隠れし、2回目の講和会議を欠席します。連合国軍が晋作の欠席に疑問を呈したため晋作は藩から探し出され、3回目の会議には出席。そして「外国船は自由に海峡を通航できる」といった講和が成立します。連合国軍は賠償金も要求しましたが、「攘夷は朝廷・幕府の命令。藩に支払い能力はない」という藩の主張を連合国軍も認めます(※17)

座敷牢から藩初の国際交渉の大舞台へ。大役を演じて休戦を実現し、途中で雲隠れする奔牛ぶりを見せつつも、博文・馨らと共に、藩を列強諸国による危機から救った晋作。当時26歳の若者でした。

「晋作所用直垂」(下関市立東行記念館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「晋作所用直垂」(下関市立東行記念館蔵)。晋作が連合艦隊へ交渉に赴く際、藩主から拝領して着用した
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パリから里帰りした和式大砲の青銅砲(下関市立長府博物館保管)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

連合国軍は長州砲を戦利品として持ち帰った。これはパリから里帰りした和式大砲の青銅砲(下関市立長府博物館保管)
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「馬関戦争図」藤島常興(ふじしま つねおき)筆の一部(下関市立長府博物館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

四カ国連合艦隊による下関砲撃を描いた「馬関戦争図」藤島常興(ふじしま つねおき)筆の一部(下関市立長府博物館蔵)
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  • ※1 松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰。本文※1へ戻る
  • ※2 吉田松陰の妹・文(ふみ)の最初の夫となった。本文※2へ戻る
  • ※3 元服した男子のかぶりものの一種で、室町末期以降は儀礼の時に用いた。本文※3へ戻る
  • ※4 吉田稔麿(よしだ としまろ)が描き、山県有朋(やまがた ありとも)に「烏帽子は高尚な気風の玄瑞、木剣は人を斬ることはないが弁舌が鋭い入江九一(いりえ くいち)、棒は役に立たない小石がただいたずらに仲間数に入っているおまえ(有朋)じゃ」というふうに語ったという。牧野謙次郎『維新伝疑史話』1938による。本文※4へ戻る
  • ※5 外敵を撃ち払って入国させないことなど。本文※5へ戻る
  • ※6 萩藩の尊王攘夷派と結びついた公卿(くぎょう)らに朝廷を動かされている現状に危機感をもった孝明(こうめい)天皇と鹿児島藩、会津藩などによって行われた政変。本文※6へ戻る
  • ※7 前年の政変について冤罪(えんざい)を訴えるべく、元治元(1864)年、来嶋又兵衛(きじま またべえ)や家老らが京都へ進発し、朝廷に嘆願を重ねたが受け入れられず、7月19日、京都御所内の会津勢らと戦って敗退した事件。本文※7へ戻る
  • ※8 目的は、長州が前年に攘夷戦を行った関門海峡の航行安全を確保するためや、日本に攘夷の無謀さを知らしめ、幕府の鎖港方針を撤回させるためと考えられている。本文※8へ戻る
  • ※9 京都への進発を主唱する来嶋又兵衛を説得すべく、藩主世子(せいし)から派遣されたが、その結果を報告せず、無断で京都へ行ったことを脱藩とみなされた。本文※9へ戻る
  • ※10 松下村塾の塾生。文久3(1863)年、井上馨(いのうえ かおる)や井上勝(いのうえ まさる)、遠藤謹助(えんどう きんすけ)、山尾庸三(やまお ようぞう)と英国へ留学。博文は明治維新後、初代内閣総理大臣となった。本文※10へ戻る
  • ※11 『伊藤博文、井上馨二元老直話維新風雲録』の博文の談話による。一部抜粋して意訳。本文※11へ戻る
  • ※12 明治維新後、初代外務大臣となった。本文※12へ戻る
  • ※13 帰国後、横浜で英国公使を訪ね、藩へ和議を勧めたいと申し出た。本文※13へ戻る
  • ※14 江戸時代、武家の礼装として用いられた衣服。本文※14へ戻る
  • ※15 英国人。本で日本に興味を持ち、英国外務省の通訳となって文久2(1862)年に来日。明治維新の前後を通じて25年、日本に滞在した。本文※15へ戻る
  • ※16 アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』による。本文※16へ戻る
  • ※17 3回目の会議では、毛利(もうり)家一門の宍戸親基(ししど ちかもと)が交渉。連合国軍は、その後、幕府に賠償金300万ドルを要求した。本文※17へ戻る
【参考文献】
アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』上 2006
下関市立長府博物館『東アジアのなかの下関-近世下関の対外交渉』1996
末松謙澄『防長回天史』5第4編-下1991
末松謙澄編『伊藤博文、井上馨二元老直話維新風雲録』1918など
保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機 下関戦争の舞台裏』2010
山口県編『山口県史 史料編 幕末維新』7 2014
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