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2014年10月24日号 vol.281
おもしろ山口学/志士らから慕われた「鬼又兵衛」来嶋又兵衛

写真:美祢市立厚保(あつ)小学校の校庭に立つ「来嶋又兵衛像」。かつてそこに妻の実家があり、その東隣に又兵衛は居宅を構えた

第2回 高杉晋作の来嶋又兵衛への説得失敗と、禁門の変
「禁門の変」と関わりの深い、幕末の萩藩士・来嶋又兵衛を紹介します。

文武に優れ、萩藩の重臣・周布政之助(すふ まさのすけ)(※1)や桂小五郎(かつら こごろう)(※2)、久坂玄瑞(くさか げんずい)(※3)ら年下の者から慕われた来嶋又兵衛(きじま またべえ)。高杉晋作(たかすぎ しんさく)(※4)も、文久3(1863)年6月「奇兵隊(※5)」結成時には又兵衛に相談して協力を得ていました。

しかし、彼らの絆は、その年起きた「8月18日の政変(※6)」を境に翻弄(ほんろう)されていきます。その政変で萩藩は尊王攘夷派の7人の公卿と共に京都を追放され、藩内からは、藩主の世子(せいし)・毛利元徳(もうり もとのり)が京都に上って朝廷に冤罪(えんざい)を訴えるべきという声が起こります。又兵衛と玄瑞は世子護衛のため「遊撃隊(※7)」の隊士募集の役目を任じられます。人望ある又兵衛の呼び掛けに町人・力士・他藩出身者など600人以上が殺到したといい、又兵衛は隊の総督に就きます。

その後、時機を待つべきとする政之助らの判断で上京は延期となり、隊士らの不満が高まります。元治元(1864)年1月、又兵衛は2人の隊士から「君辱めらるれば臣死す(※8)のとおり、我々が京都に行って藩主の冤罪を訴えたい。自分たちが首を切られたり、捕らえられたりすれば、進発の機会となる」と嘆願されます。心を動かされた又兵衛は、藩政府の政之助に「討ち死に覚悟。隊を率いて進発させてほしい」と詰め寄りますが、「武勇にはやっては忠義は忠義にならず」と厳しく批判されます。又兵衛は「家に帰れば妻からあなたのように戦好きでは困ると言われ、今また友のあなたからの忠告。どうすればいい…」と隊士らとの板挟みで涙を流したといいます(※9)。隊士らの暴発を恐れる政之助は世子に相談し、世子が又兵衛の説得に派遣したのが晋作でした。

追い詰められた「禁門の変」前夜の又兵衛と玄瑞

1月24日、晋作は遊撃隊の本陣へ行き、数日にわたって又兵衛の説得を試みますが説得しきれず、世子に無断で京都へたってしまいます(※10)。後日、晋作は手記で次のように釈明しています。「私は又兵衛にこう言った。『僕一人の身ならいつでも暴発する。しかし、これは国家のこと。今、桂や久坂らは京都で周旋に苦心している。戦っても結果はみえており、僕が彼らと相談し、彼らが自重すべきと言うなら隊を鎮めてもらえないか』。すると又兵衛が承諾したので私は急ぎ、船に乗ったのだ」(※11)

小五郎も玄瑞も当初、時機を慎重に探り続けた、自重論でした。しかし、京都の政情の変化を見て進発へと転じます。藩は、進発を決定。6月、又兵衛や家老らは諸隊を率い、次々と上京します(※12)

京都では長州側から朝廷へ嘆願を重ねましたが、7月18日、朝廷・幕府から長州勢討伐を宣告されます。諸藩の大軍も続々と入京。長州勢は追い詰められます。玄瑞はひとまず大坂へ退去を、と説きますが、討ち死に覚悟の又兵衛は御所内の会津軍への奇襲を主張し、又兵衛に異を唱える声は上がりませんでした。18日夜より長州勢は京都へ進軍し、中でも遊撃軍は禁門(御所の門)に突入し奮戦します。ところが隊を指揮していた又兵衛が胸に被弾。その死を境に総崩れとなり、玄瑞も、死を選びます(※13)

そのとき晋作は、無断で京都に行った罪で萩の自宅の座敷牢(ろう)にいました。7月下旬、晋作は京都で戦があり、玄瑞が忠死した、といううわさを耳にし、真偽を確かめるべく、亡き師・吉田松陰の兄に手紙で問います。「偽りの多い世の中ゆえ疑っております。しかし、毎晩、玄瑞の夢を見るのです。なにとぞ真実をお知らせください」とー。

「禁門の変」へやむにやまれず突き進んだ又兵衛。止め切れなかった玄瑞。晋作は夢の中で長州再起の志を託されたのかもしれません。

防府天満宮の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

防府天満宮。又兵衛は防府天満宮の春季例祭に行き、京都進発の是非をおみくじで占ったという
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又兵衛旧居のふすまの下張りから見つかった文書(山陽小野田市歴史民俗資料館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

又兵衛旧居のふすまの下張りから見つかった文書(山陽小野田市歴史民俗資料館蔵)
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光市室積の峨眉山にある護国神社の境内の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

光市室積の峨眉山(がびさん)にある明治3(1870)年創建の護国神社に又兵衛はまつられている。なお、鳥居には「遊撃軍」と刻まれている
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  • ※1 幕末、激動期の萩藩を藩政指導者として支えた。本文※1へ戻る
  • ※2 木戸孝允(きど たかよし)の名でも知られ、明治維新の指導的政治家として活躍。本文※2へ戻る
  • ※3 高杉晋作と並ぶ、松下村塾(しょうかそんじゅく)の双璧。吉田松陰(よしだ しょういん)の妹・文(ふみ)の最初の夫。本文※3へ戻る
  • ※4 禁門の変後に二分した藩論を慶応元(1865)年に統一した。本文※4へ戻る
  • ※5 幕末維新期に萩藩や支藩で結成された軍事組織「諸隊」の一つ。攘夷(じょうい)を実行後、外国の艦隊から激しい反撃を受けた萩藩が晋作を起用し、創設した軍隊。有志の者を募り、武士だけでなく庶民も参加。本文※5へ戻る
  • ※6 萩藩の尊王攘夷派と結びついた公卿(くぎょう)らに朝廷を動かされている現状に危機感をもった孝明(こうめい)天皇と鹿児島藩、会津藩などによって行われた政変。本文※6へ戻る
  • ※7 諸隊の一つ。さらに職業別に分け、力士による角力(すもう)隊、僧侶による金剛隊、神官による神祗(じんぎ)隊などと命名。その後、遊撃軍に改称。本文※7へ戻る
  • ※8 君主が辱められたときは、家臣は死を決して君主の恥をそそぐべき、という意味。本文※8へ戻る
  • ※9 『防長回天史』に引用された吉富簡一(よしどみ かんいち)の談話速記による。本文※9へ戻る
  • ※10 晋作は又兵衛から「厚禄(こうろく)に安んじて姑息(こそく)な説を唱へ、昔日の英気を失へり」と言われたともいう。ある知友が語った話として『防長回天史』に記載。本文※10へ戻る
  • ※11 晋作の『投獄文記』による。そこには、晋作が25日に又兵衛を訪ねると、又兵衛が(防府)天満宮の祭りでおみくじを引いて進発の是非を占うつもりだと言ったと記されている。翌2月のものと推測される又兵衛から藩政府宛ての書状の下書き(本文下の中央の写真)にも、進発の是非をおみくじで占ったと読み取れる内容が記されている。本文※11へ戻る
  • ※12 この時、進発に反対する政之助は、野山獄にいた晋作を訪ねた際の言動が問題視され、逼塞(ひっそく)を命じられていたため、進発を押しとどめられなかった。本文※12へ戻る
  • ※13 最後まで公家への周旋に動いたが、その公家の邸宅に敵兵から大砲を打ち込まれ、応戦後、自刃。本文※13へ戻る
【参考文献】
一坂太郎編『高杉晋作史料』1・2 2002
瓜生等勝『新史料 来嶋又兵衛文書』1984
末松謙澄『防長回天史』5第4編-上1991
三原清堯『来嶋又兵衛伝(復刻版)』1992など
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