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2014年10月10日号 vol.280
おもしろ山口学/志士らから慕われた「鬼又兵衛」来嶋又兵衛

写真:「来嶋又兵衛肖像画」の一部(山口県立山口博物館蔵)(左)。又兵衛旧居のふすまの下張りから発見された又兵衛の日記(西圓寺蔵)(右)

第1回 桂小五郎、吉田松陰、周布政之助と来嶋又兵衛との絆
「禁門の変」と関わりの深い、幕末の萩藩士・来嶋又兵衛を紹介します。

剣術・馬術の達人で正義感が強く、若い志士らを厳しく指導し、恐れられる一方で、面倒見が良く、慕われ、「鬼又兵衛」ともいわれるようになった来嶋又兵衛(きじま またべえ)。幕末、萩藩が「8月18日の政変(※1)」で失った名誉を回復するため、軍を率いて京都へ進発し、久坂玄瑞(くさか げんずい)(※2)の反対を押し切って京都御所で「禁門の変(※3)」を引き起こした武人…として語られることが多い人物です。しかし、旧居のふすまの下張りから見つかった手紙などから、詳細な実像が明らかになってきました。

又兵衛は西高泊(にしたかとまり。現在の山陽小野田市)の出身。20歳のとき、俵山(たわらやま。現在の長門市)の来嶋家の婿養子となりました。翌年、厚保本郷(あつほんごう。現在の美祢市)に転居(※4)。そこで、武術の塾を開き、名を知られるようになります。

弘化3(1846)年30歳のとき、又兵衛は初めて江戸藩邸勤めとなります。武芸の達人だったことから江戸屈指の道場「練兵館」の斉藤弥九郎(さいとう やくろう)(※5)と親しくなり、その後、長男・亀之進(かめのしん)を練兵館に入塾させます。厚保に残した妻へは「自分が欲しい物も我慢して亀之進のためにあてる」と手紙を送っており、子煩悩でもあったのでしょう(※6)。練兵館の塾頭は当時、桂小五郎(かつら こごろう)(※7)が務めており、その関係もあって父子共に小五郎とも非常に親しくなります。ある年、息子を帰郷させる際には小五郎と帰国させることにし、それを伝えた妻への手紙には「この人、極めてよい士で頼りになる人柄だから安心せよ」(※8)とあり、小五郎への信愛、ほのぼのとした家族愛がうかがえます。また、自身の帰郷を伝えた母へのある手紙には「私は最近ことのほか口ひげを生やし、見苦しいまま帰ります。たまげなきよう前もって申し上げます」とわざわざ自身の似顔絵を添えていて、ちゃめっ気ある温かい人柄が伝わってきます。

周布政之助に絶大な信頼を寄せた又兵衛

こまごまとした収支記録や日記も公私にわたって残している又兵衛。江戸藩邸の経理面を預かる役職などを歴任した、実は文武両道の人でした。安政2(1855)年の江戸勤めでは、安政の大地震で大きく損傷した藩邸修復事業も任されています。「胆力、人に過ぎ、また精算密思あり」(※9)と、親しかった吉田松陰(※10)も又兵衛の能力を高く評価しています。その松陰の若い門下生らが江戸に出てきたときには、又兵衛は面倒をよく見てやり、松陰から「玄瑞・松洞(しょうどう)(※11)など、ひとかたならずご厄介になり」(※12)と感謝する手紙も受け取っています。

又兵衛は5歳年下の周布政之助(すふ まさのすけ)(※13)とも親しい仲でした。文久元(1861)年、長州に戻っていた又兵衛は、政之助が一時離れていた江戸藩邸に戻ることを知ると、「江戸政府(藩邸)の幸いにして(萩の)藩政府の不幸であり、自分にはもっとも不幸だ」と小五郎に手紙を送っていて、絶大な信頼が伝わってきます。

その政之助が後に、酒に酔って土佐藩(現在の高知県)の前藩主・山内容堂(やまうち ようどう)(※14)への舌禍事件を起こします。激怒した土佐藩士が政之助との面会を求めて江戸藩邸に押し掛けてくると、又兵衛が応対し、政之助を守ります。さらに又兵衛は福井藩(現在の福井県北部)の江戸藩邸へ赴いて事情を語り、容堂と親しかった前藩主・松平慶永(まつだいら よしなが)(※15)による仲介を懇願。又兵衛が政之助をいかに萩藩の宝と思っていたかが分かります。

恐れられつつも世話好きで、年下の者たちから慕われた鬼又兵衛。そんな年長者の存在があったからこそ、時代を動かす若い志士らが育まれたのかもしれません。

山陽小野田市西高泊の厳島(いつくしま)神社境内にある「来島又兵衛誕生之地」の碑の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

山陽小野田市西高泊の厳島(いつくしま)神社境内にある「来島又兵衛誕生之地」の碑
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「俵山名所絵はがき 怪傑来嶋又兵衛政久(まさひさ)旧宅」(山口県文書館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「俵山名所絵はがき 怪傑来嶋又兵衛政久(まさひさ)旧宅」(山口県文書館蔵)。又兵衛の俵山の旧宅の写真が古い絵葉書に使われている
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美祢市にある又兵衛旧居の地の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

美祢市にある又兵衛旧居の地。旧居の石垣や塀などが残る
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  • ※1 文久3(1863)年、萩藩の尊王攘夷(そんのうじょうい)派と結び付いた公卿(くぎょう)らに朝廷を動かされている現状に危機感をもった天皇や鹿児島藩などによる政変。萩藩は尊王攘夷派の7人の公卿と共に京都を追放された。本文※1へ戻る
  • ※2 高杉晋作(たかすぎ しんさく)と並ぶ松下村塾(しょうかそんじゅく)の双璧。吉田松陰(よしだしょういん)の妹・文(ふみ)の夫。本文※2へ戻る
  • ※3 元治元(1864)年7月、前年の8月18日の政変によって失われた萩藩の名誉を回復すべく、鹿児島藩の兵らと京都御所で戦って敗れた事件。本文※3へ戻る
  • ※4 俵山の来嶋家は厚保本郷の来嶋家の娘を養女とし、又兵衛は婿養子として迎えられた。結婚の翌年、又兵衛夫婦は妻の実家の隣に新宅を構えた。本文※4へ戻る
  • ※5 剣術だけでなく、西洋兵学も教えた。塾生には萩藩士も多い。本文※5へ戻る
  • ※6 又兵衛の旧居のふすまの下張りから見つかった文書類から。本文※6へ戻る
  • ※7 木戸孝允(きど たかよし)の名でも知られ、明治維新の指導的政治家として活躍。本文※7へ戻る
  • ※8 又兵衛の旧居のふすまの下張りから見つかった文書類から。ただし、小五郎はその後、勤務の都合で帰郷できなくなった。本文※8へ戻る
  • ※9 尻ごみしない精神力や経理の計算力、思考力を評価した言葉。安政5(1858)年11月下旬と見られる松陰の原稿から。『吉田松陰全集』4巻。本文※9へ戻る
  • ※10 松下村塾を主宰。本文※10へ戻る
  • ※11 松浦(まつうら)松洞。松下村塾の塾生。松陰の肖像画を描いたことなどで知られる。本文※11へ戻る
  • ※12 安政5(1858)年10月19日付の手紙。『吉田松陰全集』8巻。本文※12へ戻る
  • ※13 萩藩士。激動期の萩藩を藩政指導者として支えた。本文※13へ戻る
  • ※14 外圧に対応するため、朝廷と幕府が結び付き、体制の安定を図る公武合体を周旋したが、「酔えば勤王、覚めれば佐幕(幕府を補佐すること)」ともいわれた。本文※14へ戻る
  • ※15 春嶽(しゅんがく)の名でも知られる。名君としても知られ、幕政にも参加。本文※15へ戻る
【参考文献】
瓜生等勝『新資料 来嶋又兵衛文書』1984
瓜生等勝『続新資料 来嶋又兵衛文書』1997
周布公平監修『周布政之助伝』上・下1977
三原清堯『来嶋又兵衛伝(復刻版)』1992など
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